流れていること

川は、水が流れ続けるからこそ川として成り立つのであり、流れがよどんだり、止まってしまったりすると、当たり前だけれどそれは川ではなくなってしまう。

 

人の営みにおいても、多くのものは流れている。

食料は、毎日購入され、日々食され、老廃物としてそこから出ていく。という人の根本があるがゆえに、それを購入するための「お金」も流れなくてはならない。

貯まる「だけ」では意味がなく、それが何かを生み出したり、作り出したりするからこそ、まさに「川」と同じことが起きる。

 

たまに「銀行にはお金がたまっているだけ」と勘違いをしている御仁がいらっしゃることがあるようだけれど、銀行とは「お金」を誰かから預けてもらい、それを別の誰かに「使ってもらう」ということで、その差額を手にしている。そこを通過させる中で価値を生むという事。

別に銀行に限らない。メーカーは、材料会社から材料を買い入れ、それを製品にして世に出していく。要するに「右から入れて、何か価値を加えたり出したりして、左から出す」。すべてのものはこれで成り立っているということ。

 

これがうまくいかなくなると、人体では「便秘」という状況になり、家庭においては「ゴミ」などがたまったゴミ屋敷を生む。

 こう考えると、何かを入手したと同時に、どうにかして出していかなければ生きていけない。通過の際に価値を生み出さねば、その通過させる意味すらなくなるということ。

 

インプットばかり多くてもアウトプットされなければ、無駄がたまった「ゴミ屋敷」になるのであり、アウトプットばかり多くても、そもそもの材料としてのインプットが少なければ、なかなか意味ある価値を生み出しにくい。

 

やはりここにもフロー、流れとしてのバランスが存在するということか。

スポーツとして、道具として

車メーカーの進化がさわがしい。

自動運転技術の発展がユーザーレベルにおいても目に見えるほどのレベルになり始めているところで、現実レベルとしての自動運転がいよいよこれから十数年で実用になりそうな雰囲気だ。

 

ただ、では既存の人が運転する車がなくなるのか?というと、たぶんそうはならないだろう。特に車という道具は、「人を運ぶ道具」だけではないというところに大きく起因する。

車の場合、それはスポーツの道具でもある。だからこそ、スポーツとしての車、運転すること、マシンを人が思うように扱う、操れることによって得られる爽快感などなどで得られるものは、やはり自動運転とは別次元、別軸の話だろう。

 

であるからこそ、それはもしかしたら明確に区別したほうが、結果的に効率的であり、社会的に効果が高いような気がしている。それは自動運転のエリア、それは人が操作するエリア…と。

当たり前だが、たぶん当初数十年は、人が運転する車と、自動運転する車とが混じることになる。たぶんそれが一番事故の可能性が高いのではないだろうか?また自動運転の性能がなかなか十分に発揮できない世界になりそうだと言う想像も見える。すべてが自動運転の車になり、基本、人が運転する車は「町中を」走り回らないことになれば、たぶん将来的には事故はまず起きなくなるだろう。
しかしこれでは逆に、それでは「スポーツとして車を楽しみたい人」を阻害することになる。であるがゆえに、スポーツとして楽しめる場所、空間を徐々に制限していくという形での行政運営をイメージする。

 

私がイメージする遠い未来は、自動運転の車というリソースが十分に用意されている世界においては、社会レベル全体としての移動品質の向上に他ならない。

自動運転が十分に機能する世の中になれば、「車」という考え方が、大きく変革することになるだろう。ある意味移動のための道具というよりも、部屋ごと移動する意味では、もしかすると「どこでもドア」になるのかもしれない、と。となれば、車とは移動する部屋であり、家という不動産の中における動産部分という特殊な位置付けに。

早く来ないかなぁ。

 

 

制約とバランス

映画が好きだ。

劇場で見るのもそうだし、DVDやBDで見るのも嫌いじゃない。最近はネットでの配信なんてのも見られる便利な時代。

 

そうしたコンテンツだけれど、やはり作るほう、お金を出す方としては、そうそう失敗はできないと考える。だって一本作るのに、少なくとも数千万から億円。海外作品だと、場合によっては数十億円は普通にかかる世界。これを少なくとも回収できなければ…となると、それぞれのレイヤーに対する配分比率は置いておくとして、映画の場合、一人がザックリ一本2000円で見るとしても、たとえば10億の製作費をかけた作品なら、50万人が見てはじめて10億円の売り上げに。…と考えると、やっぱり脚本を吟味し、監督を吟味し、俳優も吟味し…なおかつ製作費は安くあげたくなる。

なにより、見に来てくれる世間のみんなに「みたいなぁ」と思わせるのがむつかしい。となれば、以前の続編とか、パート2なんて所だけででも最低顧客数を確保したいところ。

であるがゆえに結果的に、続編、続き物、スピンオフ作品などが軒を連ねる。

 

ただし、これはこれで作り手としては別の大変さがある。自由にできない、「前作の雰囲気を引き継いだ…」 とか「キャラクター設定」といった足かせをはめられることになる。自由にできる余地が狭くなるという話だ。

だが、どうやら人間というのは、多少の制約があったほうが、何かと作りやすいような気もしている。

 

どんな場面、職種でもいい、

「制約はありません。なんでもいいよ」

といわれると、どうも足がかりがなくフワフワしてしまって、落ち着きどころがない感覚はないだろうか?それに対して、

「…という制約の中で、なんとか面白いものを…」

というほうが、実はいろいろと「工夫」のやりがいがあったりする人を良く見る。

 

現実には、制約がないということなどありえない。どんな物事でも、時間とお金(と求められる品質)における制約は、必ずかかっているのだ。それを意識できている作り手かそうでない作り手か。

過度に恐れすぎるのも委縮をもたらす。けれど、湯水のようにお金も時間も使い倒すのも、それはそれでかけた時間とお金に比例したアウトプットにはならないのが世の常。あなたの立場において、あなたの立場でのバランス感覚を持つことの大切さ。

 

今年もどのくらい制約を意識できているのか、意識するのか、意識させるのか。この辺りを肝に進んでいこうかな。

 

リスクレイヤー

過日にも書いた「続き物が多いコンテンツ業界」だけれど、単なる続き物以外のものに挑戦しようとしているという企業、声も聞こえてくる。だがそれであっても、ある意味で部分的リスクを回避しているという考え方を取り入れているところがある。

 

たとえばテレビドラマや映画。今までにはない新作…なのだけれど、じつは「漫画原作」などというのは枚挙にいとまがない。昔から「原作小説」があるものはいろいろあったけれど、昨今はより映像イメージが確実な漫画原作が増えているような気がしている。これは放送局サイドにおいて、作る現場において、スポンサーへの説得材料として、「面白い映像になるだろう」というところをある程度「漫画原作」で担保しているというところ。この部分のリスクを軽減していることに。

だが当然ながら、それだけ「期待値」が高ければ、それに見合った俳優、演出が必要になるわけで、それはそれで超えるべきハードルが高くなるということにもなる。

 

現場は現場で、新しい演出のために新技術を導入しなければならないかもしれない。となると当然ながら「技術リスク」がついてくる。

広報宣伝はそこはそこで、あらたなビジネスモデルや、販売のための仕掛け、今までにない展開の仕方を工夫しなければならないリスクが存在する。

 

そう、結局リスクはなくならなくて、リスクをとるレイヤーをどこに設定するかだけの話。あるリスクを低減する事で、別のリスクが顔を出すだけの話。

…であるから、原作がないからとあきらめる必要もないし、技術がないからとあきらめる必要はない。それをいかにして乗り越えるのか?それを考えること、実現することに、その現場の、職場の働き甲斐があるはずであり、それこそが求められている「仕事」のはずなのだから。

 

自分がどこのリスクレイヤーで勝負を挑んでいて、どうやってそれを克服していこうか?と意識できていること、リスクと対峙できていることこそが重要なはず。

 

で、皆さんはどのレイヤーを取ってますか?

 

コンテンツの時代

普段はテレビのない生活をしていて、地方に出張で出かける以外はまず見ることがないのだが、年末年始のこの機会でなんどかテレビを見るチャンスがあった。

…のだが、本当につまらない(あくまで私見ですよ)。なぜここまでつまらないものをやり続けるのかというほどつまらない。なので基本ニュース番組しか見ないのだが、それも「ニュースバラエティ」的な番組につながり始めた瞬間に途端につまらなくなる。なぜあなた方がそれを議論しているのかもわからないし、そもそも議論が浅かったり。

 

その傾向が今も出ているのかどうだかよくわからないけれど、ドラマの視聴率もよくないらしい。昔は、月曜はどこどこ、火曜はどこどこ…と連続ドラマを楽しみにする時代もあっただろう。けれど、次第に仕事量が増えたりしてその時間にテレビの前に座ることがむつかしくなっていった。と同時にビデオの普及、留守録という発明がなされ、帰宅してから、週末に、という形でコンテンツが消化されていった時代があった。

しかし所詮、日本ではそのほとんどが「日本国内」だけをターゲットにしているコンテンツ。自主規制なども徐々に強まり、面白いことがやりにくく、むつかしくなってくる。お金もかけられない、アイデアもなかなか出てこない。

「テレビ番組」を作っている局は当然理解しているはずだが、もう「隣の局」の番組と競争している時代ではない。ほかの業態、たとえばネットの映像、ネットコンテンツ、アミューズメント、ゲームなどと競争しなければならない時代、チャンネルではなく、ゲームやゲームやYoutubeもふくめた、どのコンテンツを選ぶかの時間の奪い合い。

 

これに対する一つの答えが出始めているであろう現象が、ネットコンテンツ配信会社の躍進だろう。Netflixが非常に伸びているし、(ここはネットの映像コンテンツのみではないけれど)Amazonのコンテンツや、もちろんAppleも元気だ。

 

たぶん上記のどの会社も、「来年度中に黒字に」などといった単純な、短期の利潤追求のみでは考えていないだろう。5年、いや10年先の覇権を取ったうえで、そこからドッと回収に入るというための、投資がたぶんしばらく続く。

日本でもAbemaTVという、まだまだ赤字のネットコンテンツチャンネルが台頭し始めているけれど、なんとか台頭して生き残れそうなのはここくらい?ニコニコ動画はなかなか画質、音質向上、視聴機会の拡大などがうまくいっていないようにも見える。ネット業界の栄枯盛衰はいまだ激闘中といったところなのだろうか。

 

今年は冬季オリンピックが、そして2年後の2020年には日本でもオリンピック開催が予定されている。そこにネットをどう使っていくのか?どう使ってもらおうと思っているのか。

いや、もうそんなテクノロジーに興味を示す、胸躍る消費者ボリュームが減ってきている「日本」というコンテンツ自体がやばいのかもしれないけれど。