アイデアの泉

過去のテレビ局は、深夜帯がそうだった。怪しげな番組、不可解な番組、破廉恥な番組。ひどい番組も少なくなかったけれど、予算はないからアイデア一発勝負。アイデアさえよければそれなりに評価もされていた。
ノイタミナ枠」という深夜のアニメ枠がまさに、アニメにとってのそういう場所だろう。ここではゴールデンタイムにはすぐにかけられないけれど、ちょっとパンチが効いたことができる実験場。これで世間の反応をうまくとらえて、あわよくば…だ。

 

NHKはある意味、ずっとそれを実践しているとも考えられる。民法の深夜枠にあてはまる機能を、Eテレになっているだろう。もちろん、教育のためのチャンネルなのだというのが第一義ではあると思うのだが、チャレンジングな番組がいつもチラチラと目に留まる。詳しい内情は知らないけれど、視聴率をある意味無視して、実験的番組制作をできる場があるからこそ、その実験結果から面白さを見つけ出し、そのほかの番組にフィードバックがかかるということ。

 

すでに自主規制がかなりキツくなっている現在の「テレビ局」におけるそうした深夜枠、アイデアの泉は「Web放送局」という位置づけなのだろうか?頑張っている局もあるのだろうと思うけれど、すべてがそうじゃないということは否めない。視聴率も下がり、広告収入も下がりつつある厳しい状況だとは思うけれど、いかに自分の中にそんな「アイデアの泉」を保ち続けるか。

これはテレビ局に限らず、企業も、組織も、個人もそうだろう。

 

でも企業は企業で、コストパフォーマンスを上げるために、そうした異端児を生み出す場所、組織を絞り上げ、削り続けている。もちろんそれで「目先の利益」は上がるのだろうが、通常はそれにより、長期的には低迷することは否めない。

個人は個人で、そうした企業の「効率化」の流れに押され、ぎりぎりまで力を搾り取られている状況。つらい状況は私も身をもって感じているのでよくわかる。が、それでもやっぱり、自分の時間、アイデアの泉、何かやりたいかもしれない事を持ち続けること。疲れ果てて大変だけれど、それでも自分の時間をつくる事。たぶんそうして得られた時間での活動それこそが自身のアイデンティティにもなり、それが生きる力につながるはずなのだから。

 

 

解と正解

小中高までの間で学ぶそのほとんどには、一つの「正解」がある。であるからこそ、試験問題としてその唯一解、「正解」を求めた場合が〇で、それ以外が×なのだけれど。

だが、大学あたりから「正解」はなくなり、社会人になってからは明らかに唯一の正解を探すというよりも、「解」、それも「落としどころとしての解」を探すことになる。

だが、なかなかその切り替えができない事もなくはない。

「いや、論理的に考えればコレが正解でしょ!」

と若気の至りで突っ込むも、上司からはたしなめられ、それ以外の解で進めることになる。この差は何なのか?

 

当たり前だが、社会に出ると、かかわる人々の数は格段に増える。そしてそういうそれぞれの人たちの立場によって、利害ととらえられるものは、時には微妙に、時には全く違うものになる。そのそれぞれに対してより良い解になるものを選ばなければならないことがほとんど。誰かにとっての最適解は、別の人にとっては明らかな間違い、×になることは選べなくなる。であるからこその「解」。

だから総意として、皆が完全に満足できる解があればそれを選ぶわけだが、通常そんなものはなく、それぞれにとって妥協点はあるものの、まぁ納得できなくもないという解を選ぶのが、社会に出てからの解。
この最たるものが政治であり、痛みを伴うものの、ほかの立場、これからの世代を考えて進めていくための解。これが「とにかく俺が困っているんだ!俺たちを何とかしろ!」とそこだけにフォーカスした対策をもとめる者もいなくはないけれど、それをどう扱うか、どうしていくかが悩ましい課題。

 

完璧なロジックだけで構築されているような数学のような抽象的世界は別にして、社会においては、「正解」はないということ。「解」しかないということ。

利己的、利他的

ある意味非常に不思議なことなのだが、誰かのためにと献身的に、自分を顧みずにまず先に周りの誰かに、周囲の誰かに、という事をイメージして行動したり、事を起こしたりする人は、結果として皆がその人の味方になり、その人自身が大きな利を得ることがある。

言うまでもないが、自分が自分が!とまず利己的視点に立ち、周りに迷惑をかけながら、自分だけが良い目をしたり、自分だけが得をしたりする人は、結果的にその周りがその人を避けたり、助けてくれなくなる。

 

とくに「昭和」時代の日本は、(相対的に見て今より)日本全体が利他的だったのではないだろうか。周りをおもんばかり、周りのことをまず先にと考える。もちろん、そんな中で一部利己的に動いていた人は、おいしい汁を吸っていたかもしれない。が、上記に書いた通り、ずっとそればかりでは、やがて窮地に陥る。どこかで利他的な面を見せたり、利他的な側面を持ち合わせなければ、結果的に孤立しかねない。

 

昨今のSNSの機能の多くは、自分発信だ。自分発信の多くが、誰かの発信に対して「いいね」と共感することで成り立っているのがSNS。ある側面として、承認欲求、自分が満たされるためのツールになっている。だかが、どうしてもそんな中において「自分が落ち込んでいること」だけを投稿するのはむつかしくなる。同様に、自分には何の利がなくとも、誰か相手の利だけになる事…という事象も、現状のSNS上では起きにくい。

今、twitter疲れやfacebook疲れ、以前のmixi疲れの原因はこれではないだろうか?どうしても「利己的」振る舞いしか表現しにくいシステム。ここにシステムとしての限界があるのではないだろうか?

 

そこで何かの振る舞いをすると、当人には利がなくても、その人には利となる。そんなシステムが広まったり、使い勝手が良かったりすると、もっと広がるのではないだろうか?

その一つの形が、もしかすると「クラウドファンディング」なのかと考えている。そうして「ユーザーの事だけ」を考え、そこに向かって献身的に活動し、商品、サービスを作り上げていく。それを信じて、ファンドする人たちはお金を投じる。結果、より良い商品が、応援してくれた支持者に、早期にお安く届くことに。

 

でも結局、経済活動でしか成り立たないのか?SNSってそうじゃないんじゃないか?というところが、いまだモヤモヤしている。

人の繋がりとして、承認欲求だけに頼らない方向性は、システムというより、人の特性ということだし、ね。

 

素直への切り替え

自分が昔からそうだったのだけれど、何か教わることすべてに関して、本当にそれでよいのかと疑いの目を持ち、斜に構えている姿勢があった。

もちろん、それを完全否定しようとは思わない。疑いの目で見ることそれ自体は良い事であり、それにより批判的精神でなんでも疑問の目を持ち、確認する癖がつくのは、決して悪いことではない。

ただ、そうして確認できたのちでも、「でもおかしくないか?」と疑い続けるのはどうだろうか?いや、昔の自分がそうだったのだけれど、そうして何事も疑うの度が過ぎた「受け入れない」姿勢は良くない。確認したのち、少なくともその時点の自分の判断として良いものだ、いや少なくとも悪くはないと分かれば、そこからはいかに素直に受け入れられるか?

とはいえ、少なくともそこまで斜に構えていた手前、なかなか素直に受け入れる姿勢を取りにくい自分がある。がしかし、そこでまるで手のひらを返したかのように素直に受け入れられる人もいなくはない。そういう人は私の経験の中では吸収も早く、かつ成長も早いことが少なくない。いかに自分に正しいものを見つけ、それをどん欲に吸い込んでいくのか?この姿勢のとり方、この向き合い方こそが、個々人の成長を促進する原動力となる。

 

だが、どうしてもそう簡単にスタンスは変えにくいのもよくわかる。いかにしてそう素早く切り替えるのか?その一つはなぜそれを学びたいのか?学ぼうとしているのか?を自覚できているのか否かによるのではないだろうか?押し付けられて学びなさいと言われても、それはなかなか身につかない。だが多少興味を持ち、最初は懐疑的な部分を持ちながらも自分で納得できたのであれば、一気に吸い込むというのは悪くはない手だ。

 

どうだろう?皆さん、興味のある事はおありだろうか?そして、皆さん自身、絶え間なく…とまでは言わなくても、成長できているだろうか?世間はAIが台頭しつつある時代。決まりきったこと、AIに置き換えられるようなことばかりでは、あなたの価値、ポジションは下がっていきはしないだろうか?

新しい興味の分野を自分で切り開き、そこを新たに学ぶ。人間の特性である方向性と。コンピュータやAIの特性である、狭く深く、短時間に何億回も…という方向性と。同じ向きを向いていては負ける、すげ替えられるのだから。

「おこし」とは何か

地方活性化、町おこしなどということばが飛び交う会議をテレビで拝見したり、そのような記事を目にすることがある。だがそうした中でまずどうなりたいのか?その地方として、町として、どうなれば「町がおこされました」というかのコンセンサスが取れていなければ、単なる言葉の応酬、イメージの空中戦で、実利を伴わない結果に終わることが少なくない。結果、イベント会社、広告宣伝会社等に翻弄され、いっときのピークはあるものの、成功した例はあまり記憶にない。

 

なにをもって成功、というところがあやふやであると、結果としてイベントをしたり、町並みを整備したりすることにお金を費やしたりすることを考えがち。もちろん、それだけで人の流れが変わってそこに集まる人が増えたり、店の売り上げが上がることも無いとは言わない。それは、そこにそもそも存在していた商品、サービスが良かった場合がほとんど。要するに悪かった「導線」の雰囲気を変え、整備し、アクセスしやすくすることにより、寄り付きやすくなり、見つけにくかった良い商品が目に留まるようになったという事。

 

ただ、結構多くの場合、そうして導線を整備したとしても、さぁそれで売るものは何ですか?他にはないサービスは何ですか?となった時点でアウト。導線を整備しても、そこにあるものが他と変わらぬものしかなければ、わざわざそこには寄り付かない。イベントをした時だけ、きれいになったのを一度確認するために来た時だけ人が増えるけれど、それ以外は閑古鳥状態に陥るのが常だ。

 

となれば、理想の姿がみな同じように描けているのか?その理想をサポートするための何かが開かれたのか、整備されたのか?そこにこそ力を入れるべきであり、それ以外の部分は二の次のはずだ。そこに来続ける価値に投資しなければ意味はない。
…が、なかなかそれに気づけない人もいる。目先に「とにかく何かをすれば」良いと考える人もいる。それは、「熱が出たからと解熱剤を飲んだ」にすぎず、肝心の病気の根本が治っていないため、薬の効き目が切れればすぐに再発するのと同じだ。

 

確かに、行動を起こすという事は重要だ。わかっていても行動に出ない人もいる。だが「行動しさえすればよい」わけでもない。きちんと意味のある行動、自分達が思い描くことを実現することにつながる行動をしなければ意味がない。これは思ったよりも深く考えることが必要であり、昨今の複雑な社会の中でそれを考えだす、そしてやりきるのは並大抵の力ではないのは当然のことだ。だからここにはいくつものハードルがあり、正しく考え、効果的なアプローチを検討し、それに向けて一生懸命に行動、努力する。無駄なことをしている余裕はあまり無い。

 

なにかを「おこす」こと。一般的にこれはプロジェクトと呼ばれている。