善意の強要(ボランティアの定義)

今年、2020年で阪神淡路大震災から25年。すでにその後に生まれた人が仕事を持っているのが当たり前の時代に入っていることからしても、時の流れを感じる。あの震災が、事実上の日本におけるボランティアの目覚めの年と言われてもおかしくないだろう。

 

その後も、各地での大地震はもちろんのこと、昨年の台風による風水害において、個人参加されるボランティアの方々の力が被災地における大きな助けになっているのは、誰もが知るところだろう。

 

「ボランティア」という言葉を辞書で引いてみると、「自発的に活動に参加する人」と言った定義が出てくる。若くて体力に自信がある人、様々なノウハウを持っている人が、自発的に現場に出向くことで、そこで困っている人たちの手助けをする。まさにそれが「ボランティア」のあり方そのものだと思う。

にもかかわらず、ボランティアの参加を募る場合がある。その本来の真意は「ボランティアとして参加したい人でも、どのように現場にアプローチすればいいのかがわからず、参加を躊躇される人もいる。なのでその方々をいかにスムーズに現場へ導入できるようにするか」の助けとしての、ボランティアの参加の窓口であることが期待されるはずだ。

…にも関わらず、現実には、「ボランティアの手が足りません。もっと参加してください」などと言った形で「ボランティアを強制」したり、「強要」される事がある。それは「ボランティア」では無い。完全に手数の強要だ。そしてその実態の多くは、「そのイベントの予算が足りない」事を、何とか補填する手法としている場合がほとんどで、それらは事実上、工数のタダ乞いに他ならない。今一番それが顕著になっているのがオリンピックの「ボランティア」だろう。

もちろん、本来の意味としてお助けしたい、というボランティアも少なからずいらっしゃるのだろうとは思うが、中学生や高校生を「強制的に動員する」と言うのは何なのか。公がこのような形で「ボランティアを強要する」事自体が、青天の霹靂。(中高生で、彼らの味方になってくれる弁護士を見つけて、民事で訴えても勝てると思うのだが。)

 

公がこれだから民間でももちろんそのような状況はどこでも散見される。町内会や、学校の父母会の持ち回りの役割において、イラストを商売にしていたり、演奏を商売にしていたりする人々が、「職業上のスキル」を、「それ得意ならぜひその力を」と無償で提供させられる。それも尋常で無い量や時間をかけて、だ。

当人から「喜んでご提供させていただきます」なら特に問題はないだろうが、さてそのような人はどのくらいいらっしゃるのか。仕事のスキルを「タダ乞い」している意識はどのくらいあるのだろうか。

PCに関するスキルなども同じだろう。本来、その品質のサービスをお金を払って受けようとするなら、どのくらいの対価になるのか意識できているのだろうか?

 

正しい対価を支払う意識。それはとりも直さず、自分の工賃、自分の作業価値を意識できているか否か、という事。

 

乞う方も、乞われる方も、昔はそれぞれに節度があり、それこそが日本人の清さや美しさと捉えられてきたところがあると思っている。…が、これほどに貧しくなり始め、レベルが落ち始めているげんじょうでは、これも仕方がない事なのだろうか。

覚える気力

話を聞いてもメモを取らない、取ろうとしない人がすくなからずいる。そんな人に限って、後から同じ事を繰り返して質問してくる。すでに説明済みの事をもう一度聞いてくる。

いや、理解できないという人もいるのは確かだ。であるからこそ、少なくとも初回は時間をかけて丁寧に説明している。にもかかわらず記録を取らず、何度も同じ事を聞かれたり、繰り返されたりするのはかなり辛いものがある。

 

ただ、現代日本は高齢化が進んでいるのは事実。となると、このような状況が身近で起きる可能性は非常に高い。単なる「生産性向上」ももちろんなのだが、こうした高齢化による生産性低下分はどのように対処するべきなのだろうか?いや、それがビジネスチャンスだ、と捉えるべきなのか。

サービスはタダ、教えてくれたっていいじゃない、をなんとかできないものか…

 

対象となる時間

1時間かかって仕事をした人に、1時間分の対価を払う。たとえば時給1500円ならば1500円。2時間かかったならば3000円。これは理解されるだろうし、多くのアルバイトなどにおいて支払われている前提がこれだろう。

 

他方、普通の人に頼めば2時間かかるが、よりそれに詳しいスペシャリストに頼めば30分で済むこともある。
普通、こんな場合には、「普通の人」というのはある意味素人で、時給が1500円で2時間分3000円で対処する。だが、スペシャリストにも「同様の単価」で750円しか支払わないのか?はあり得ない。

通常、スペシャリストは時間単価は高い。だから30分でも3000円。ただ、30分で済んだことで、それ以外の(通常2時間かかっていたであろう残りの)90分は他の事に使えるという意味を考えれば、それでも安いという考え方もあるだろう。

要するに、スペシャリストに対しては、見かけの作業時間で支払われているのではなく、それをその時間で対処できるようになったという、そこまでの総合的価値に対してお金を払っているという事なのは、言うまでもない。

問題は、普通の人がスキルアップした際のスペシャリスト性をどの様に認識し、反映させるのか。スキルを見極めるスキルをどう持ち得るのか。

 

にもかかわらず、昨今は「目の前の時間」「作業時間」にのみフォーカスする。働き方改革の多くが「働く時間数」しか見ていない、気にしていないことが多すぎる事。時間「だけ」を減らしたいんじゃないでしょ?

高い、安いを判断するというのは、見かけの時間のみの価値判断しかできていない、しない、という事に過ぎない。「どの時間」「どんな時間」にフォーカスするのか、してもらうのか。

自分で精一杯

自分の信じることをどこまで貫くことができるのか。

AIの時代だ、人間の仕事が無くなる…と言われている反面、人手不足だの、新しい人が入ってこない…と相反する現場の声も聞こえる。

昔に比べれば良くなったであろう人材流動性も、まだまだ足りていないということでもあり、逆に言えば、それだけ仕事が無いと嘆いていても、概ね何とか生活できる水準が保てているという今の社会の豊かさに支えられた現実があるのも事実。

 

ただ、どう考えても日本は貧しくなっているのは事実であり、世界的ポジショニングにおいて、日本の付加価値、プレゼンスを上げていかなければいけないのは自明の理だろうとは思う。のだが、さて会社で、企業で働いている人たちのどのくらいが、そんな大それたポジショニングで考えているのか。ただでさえ貯金ができない、老後資金がたまらないと嘆いている人に、そんなことを求めても仕方がないし。他人の面倒を見る前に、自分で精一杯な現状。たぶん、全労働者の上位25%がいかに全体を適切に、正しい方向に導いていくのかにかかっているんじゃなかろうか。

時間の制約

かなり長い時間が空いてしまったけれど、書くことがなくなったわけではない。むしろ書きたいことは日々いろいろ出てきているのも事実。ただ、これまでの様な頻度での更新はかなり難しいかもしれない事情が出てきたのも事実。

ただ、それは送り出す方のいいわけでしかない。

 

自分の都合、自分の時間をどの様に作るのか。むしろそれが問われている時代という認識はあるのだから、やるのかやらないのかは、それこそ自身の決断に委ねられているのも事実。

なので、頻度は下がるかもしれないけれど、続けていきたい。

reboot