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コミュニケーションの前提

日本で言うコミュニケーション、昨今はビジネスマンとして、社会人としての必須の能力のように言われることもある。少なくともリーダーシップを発揮しなければならないような人にとっては、欠かすことのできない能力だろう。

 

だがそもそも、コミュニケーション能力とすべてを一つにまとめることができるんだろうか?という疑問はある。(別に私は、そうしたコミュニケーションのエキスパートでも何でもないので、すでに学問的に分類されているものなどがあるかもしれない。そういう前提なので、ここで読み進めるのをやめる方がいても仕方がない。)

 

まずは、いわゆる友人知人とのコミュニケーション。

「おぉ、おはよう」

で始まるこの言葉に、いわゆる意味は、たぶん無い。

別に本気で「早いな、今朝は」と思ってお早うと言っても構わないのだけれど、すべての人が発する「おはよう」が、『今朝は早いですね』という意味を持っているとは思えない。

要するにこれはシグナルであり、相手とのきっかけに過ぎない。これを機に、何か話題に展開するかもしれないし、話題にすら展開せず、お互いにシグナルを交換するだけで過ぎ去ることも、十分にあり得る。

 

それに対して、本当に「意味」をやり取りしなければならないコミュニケーションもある。そこで「シグナル」だけでは、単なる時間つぶしにしかならず、いったい何を伝えたいの?何を引き出したいの?が分からなければ効率が悪い。

頭のいい人によっては、とても複雑な事象、状況であったとしても、相手の答え方、応対によって伝えるべき内容を整理しながら伝え、適宜対応を取れる人もいるだろう。が、そうでない人、それこそ事情が複雑な場合などは、きちんと「伝えるべき内容」もしくは「引き出すべき内容」を整理してから挑む必要がある。そう、コミュニケーションを「考えてから」行動に移す必要がある。

 

これを「コミュニケーションが大切」という時節に乗っかって、とにかく声をかけようとする人、多くはないが、それでも結構な人がいたりする。

 

先述した「単なるシグナルの交換」で始まる場合でも、時に「情報のやり取り」に状況が変化する場合がある。その際、受け答えの仕方、話を聞きながら次に話をする内容を頭の中で構築し、推論し、話題を前に進めるための言葉と情報を構築して次の言葉を発する、というのは、たぶんトレーニングが必要になるだろう。

 

いや、何かトレーナーがついたり、どこかに通ったりするというよりも、日常で、誰かと、特に親族間でまずは「やりとりする」ということこそが、コミュニケーションのトレーニング。その際に、「物事は順番に」だとか、「前提を説明しないとわからない」などと怒られながら、指摘されながら話すことによって、頭の中には「そうか、こういう形で情報を構築し、出していかなければ相手には伝わらないのか」という回路が出来上がるはず。

 

そうした情報の構築の仕方、心のスタンスを確認できたりするツールの一つが、「本」ではないか?本は、自分の心の中での情報構築状態や、相手の心の中での状況を、「自分の読むスピード」で理解することができる。最初はややこしかったり、わからなかったりもするのだけれど、それこそはじめは「絵本」から始まり、やがて、数ページから、数十ページ、1冊、複数冊にまたがる本へと展開していく。

 

 たぶん、最近の人ならば、マンガも十分通用するツールなのかもしれない。もちろん、「本」にも素晴らしいものからつまらないものまであるのと同じく、マンガにおいても「読むべきもの」から「くだらないもの」まであるだろう。でもそうした本やマンガなどを通じて、相手の思考、論理回路を「シミュレーション」する訓練を受けるからこそ、日ごろのコミュニケーションが可能になるのではないか?

 

やっぱり本、そして良いマンガをもっと読まないと、だとつくづく思うのだが。

#あ、自分の反省文になってしまっている orz

 

 

ルールは常に

スポーツ。実は子供のころに学んだルールと今とでは、違っているモノはないだろうか?

それこそオリンピック開催ごとに若干ルールが変わったりして、どこかの国に有利なように、どこかの国だけが勝ちすぎないようにルールが改正されたりする。

引き分けが認められたり、認められなくなったり。決着がつくまで無限に延長していた時代があったりなかったり。さまざまに変化している。

 

もちろん、これはスポーツ選手への負荷軽減もあれば、ショービジネスとしての時間調整や演出などもある。見やすさ、わかりやすさ、ゲーム展開などなどさまざまなことに留意してそれらが調整される。

 

進んでいるスポーツは、そうした昨今の人気や流れ、時流を予想して、先取りしたルールを作っていこうとする。とは言え実際はそれより、多くのそれはスポーツに限らず、交通法規にせよ、法律一般にせよ、そうした事象が増えてきたら、トラブル件数が増えてきたら、それに従ってルールを調整する。ルールは「後追い」になりがちだ。

 

だから、今運用されている「それ」には、もしかすると(というか、多くは)抜け穴があるかもしれない。今できているのは、いろんな意識の高い人がトラブルが起きない事を自主的に規制しているから問題になっていないけれど、そんな意識のない人が大量にそこに流入しだしたら、一気に問題になるかもしれない。まさに「ドローン」の世界がそれに似たような状況に。

 

ルールはいつも「古い」。よほど意識が高い分野、状況を予想して作っていかなければ、ルールは新しくならない。それは、あまりの変化の激しさ、多さに、そもそも先んじて変更しても、自体がそれを超えて変化してしまうから、という側面もなくはないだろう。

 

だが、そうしたネガティブなものばかりではなく、それこそ「しっかりと想定を考え抜く」事でつくられたルールは、それは社会を変える。ルールに従ってテクノロジーが出来上がっていくことだってある。テクノロジーで社会を変えていくとすると、それに精通した人、グループが検討に検討を重ねたうえでルールを先んじて作っていくこと。古いことに不満を言っているだけで終わるのではなく、ルールで社会を作っていくことすらも可能になるはず。

 

テクノロジーで社会を作っていく、のか。

ルールで先んじて、社会を作っていく、のか。

 

 

週単位で考えるなら

昨今、どの会社の話を聞いてみても、残業規制が厳しくて、定時退社日が設定されていて。…でも仕事量は以前より多くて、という状況が目に入る。

乱暴に言うとするなら、「仕事の効率をあげなさい」という事が、社員に押し付けられているという感覚をお持ちの方も、多いのではないだろうか?

 

非常に稀有な会社もあるようだが、例えばこのような考え方はいかがだろうか?

少なくとも昨今の仕事は、「1週間」という単位で回ることがほとんど。そして、多くの職場が「土日休み」の週休2日という状況だろう(一部サービス産業は除く)。

ひと月の稼働日数が22日。1日平均2時間残業だったとして、(8 + 2) x 22 = 220時間が月単位での労働時間。一週間としてとらえると、まぁ週50時間というところか。

 

これをですよ、今は「週休二日」となっている土日休みではなく、たとえば「週休三日」として、「土日+水」 休みで対処してみてはいかがだろうか?

こうなると稼働日は週に4日。月火木金。これで50時間…いやいや、昨今の労働時間削減の折なので、たとえばこれで48時間と計算しやすい時間にしてみようか。とすると、週休三日では、毎日残業含めて1日12時間働きましょうという事に。

 

確かに、「今の感覚」ならキツイでしょう。でも水曜も休みなんですよ。さらに言えば、現在の残業時間で、22時まで働く…とかいう人、いらっしゃいませんか?なんなら、会社によって、月曜休み、火曜休みなどずらすことで、通勤列車の込み具合は、一気に20%下げられるかも。

仕事のある日の労働時間は長くなりがちだ…。が、そもそも労働時間削減に走っているのだから、「9時出社21時退社」ではなく、せめて20時には帰るくらいに回すつもりにさえなれば、自然と効率をあげようとモチベーションも働かないか?

 

裁量労働制だけではなく、今の時間単位の労働であろうと、こういう手段も検討できるはず。週休三日になれば、さすがに月曜火曜は結構つらくても、水曜日が休みなら何とかなりませんかね?

ちょっと、週休三日推しなんですけど、誰か検討してみませんか?最近の高齢者雇用などで、こうした働き方している人、いらっしゃるかと。60代の再雇用者などは、こんなところからスタートすると、体力的にも働きやすいんじゃないかなと考えるんですけど。

 

 

共感力

SNSが流行りだしてからざっと10年。「いいね」をはじめとして、共感することが取りざたされている。文字ベースのものもそうだし、写真ベースも、動画ベースも、どれにしたところで、「共感」を呼ぶ事こそが「価値」であり「勝ち」だと判断して評価をあげる。いかに共感させるか、してもらえるかを競い合う。

これに関してもっともびっくりしたのはとある有名女性誌。その号の特集が「共感」だったのには驚いたのだが。まぁインスタグラムが流行っているとすると、これも仕方がないのかな。

 

ただ「共感」は、それ単体での共感と、より大きな中における共感とでは意味合いが違うはず。全体最適としての意味としての共感と、「これ単体としてすごくいい」という共感とは、「共感」としての意味も、価値も違わないだろうか?

部分としては確かに「賛同する」が、全体ではどうか?こうしたシチュエーション、場面、特にここ何年か増えてきていないだろうか?

 

そのくらい、ある意味みんなが自身の意見を持ち始めることができるようになった、と言うか、表明しやすくなった。この違いが主張できるほどの環境になったと言ってもいい。これは社会全体としてレベルが上がってきていることを示している一因のようにも思う。

であると同時に、社会レベルが上がり、それぞれにそれぞれの価値観が存在し得ることで、全員で意義なく納得できる状況を作り出すことがむつかしくなる。だからこそ、部分的には共感できても、全体としてはいやいやそれは…となったりする。

 

  

単なる「承認欲求」の指標として、インスタグラムなどで共感を得たり、Youtubefacebookなどで「いいね」をもらうのもいいだろう。だが、もう少し意識を高く持つとするなら、それよりも一段高い意識での「共感」や「いいね」をもらう事を考えてみるのはどうだろう?

抽象的な話、物事を構造的にとらえたりする事が苦手な人には難しいかもしれない。が、構造化してとらえることで、実は共通パターンで理解できたり、もしくは他では解けている解法を用いて別の事象の問題を解決することも可能になったりする。

「意識高い系 w」などと馬鹿にするのもいいだろう。が、実はそれに共感する力がある事というのは、とても奥の深い深遠なものではないだろうか。表面的ではなく、構造として、意味として…。

 

できないことを伝えて

すでに仕事の現場では効率化が究極の域に達してきており、それでも儲けが上がらないような過酷な場面においてまで、「効率をあげよ」と指令が下る、そんな会社にいると辟易したりもするのだが。

 

当たり前の話であるはずなのだが、無限に効率が上がるわけはないじゃないですか。確かに今でも無駄なところがあるかもしれないが、それがなければ、万が一の場合にリスクに対応できなくなる場合。そのリスクは無視してもいいのか?と言ったことも。

 

なんにせよ、やはりできない事は存在する。それは物理的にというのもあれば、今の自分にはスキルが足りなくてという事もあるだろう。

そんな時、できない事をどのように伝えるのか?これこそが「伝え方」であり、ある意味「断り方」。

 

なんとなくできませーん。

これとこれはできません。

私がやるとするといくらのコストアップに。

◯日の遅れになりそうです。

 

などなど。ここまで言えれば、ある意味いいせんかもしれない。

 

ただこれだけを言うとそれは、ではそのコストアップを飲めば、では期間延長を飲めば、出来る…のだね?ということを伝えていることにも。

 

多くの仕事の場合、それができないのはやはり困るわけで、何とかやりきらなければならないのが普通。だから、やれない可能性や、コストアップ、期間延長に対する代替策を伝えるのが重要なのでは?もちろん、すぐにはいいアイデアは出ない事もある。しかし、相手は「あなたに」やってほしいと思っている、あなたしか人員を確保できなかったなどなど。仕事の場合、まず逃げられないだろう。だったらどうしたらそれ(コストアップ、期間延長等々の障害)を乗り越えられるのかがわかれば、物事は一気に解決か諦めかを決断できる方向に。無理なものは無理…と同時に、いかに前向きに解決していけるか?

 

「できない」をいかにうまく伝えるか?

「代替案」をいかに強力的に考えるか?

やっぱりコミュニケーションってむつかしい。