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犯人探し、リスク

責任を取る。多くの日本人が往々にして逃げ回る事でもある。…であるからこそ、この責任は誰にあるのか?をあいまいにしたがる組織があちこちにある。責任が明確でなければ、万が一にもうまく行かなかったときには、逃げ切れる。一度でも汚点を背負うことは、出世街道から、ある意味人生のレールから外れるもの…と思っている人が結構多い。(それによって組織やチームがぼろぼろになろうが、保身のためには関係ねーぜ…って、どうよ?)

 

であるからこそ、責任者を探すことが苦手だというのもある。そもそもあいまいにしたいと思っている組織があるが故のそうした不祥事。なので、探すのには時間も手間もかかるわけだし、それを証明するような証拠が残されていない場合も少なくない。昨今の国会等々における残念な審問は、国民の財産を一体だれが、どのような手順で手渡されるに至ったか、その都度都度の責任者を明確にしなさい、理由を明らかにしなさいという事に尽きると思うのだが。どうも何のための追求か、それに至るにはどのような論理構成で詰めていくべきかといった「解の求め方」が分かっていない人には、右に左に振り回されることにもなるだろう。情けない。そんな人員(議員)を選んだのも国民なのだから。

 

さらに言えば、そもそもそうした責任を「追及できたところ」で物事を終えてはならない。それは「今回おこってしまった事」に対するけじめ。いわば過去の清算でしかない。

今後も同じようなことが起きないようにするためには、今回の清算をすましたうえで、同じような轍を踏まない「仕組み」を構築する必要がある。が、これまた日本人は非常に下手だ。

「あいつがそうしたからいけない。あいつを交代させればいいんだ」

と、「人」に責務を押し付けて、はいオシマイ…が多くないですか?

上記に書いたように、そもそもそれぞれの人は責務を逃げ回るのも現状。だから何度も同じようなあいまいな状況が生まれ、いっこうにモヤモヤが消えない。

 

仕組みで対処しよう、仕組みを作ろう。もちろんそれが「手間」がかかるのは当然の事。だから、「手間」と「それが起きてしまった際の被害の大小」をはかりにかけて、それがもし一度でも起きてしまったらまずいよね。だから手間だけれどもこのくらいは手間をかけないといけないよね…というのが対処の基本。

これでお分かりかと思う。手間とリスクへの取り組みは、すべてバランスの上に成り立っている。ガチガチの仕組みを作ればいいわけでもないし、形だけの仕組みを作って形骸化させるのも意味が違う。何のためにやるのか、その目的のためにどこまで許容するのか。社会と組織と構成員の間でのコンセンサスというバランスの上に成り立たせなければならない事。このどちらかだけを声高に主張する人が多くて、バランスを欠いたり、理解されていると誤解して強い口調で出る人、ホント、なんとかして欲しいんだけどさ。

それでは生産性は上がらない

今まで「人間がやっていたこと」に価値を感じている人にとっては、それが単純化されたり、機械にとってかわられたりした瞬間に、「サービスが下がったな」と思われているなら?そのサービスの生産性はどのようにあげろというのだろうか?

 

考えてみよう。そこで「生産性が」語られているだろうか?

全世界の基準として、生産性とは、「人がサービスしてくれている事の有難さ」が意味合いとして込められているとするなら、たぶん日本における生産性はかなり高いのではないか。こんなに安い賃金で、こんなに気を使ったサービスをいろいろとしていただける国はそうはないんじゃないだろうか?

 

たとえば、料理屋に入って、おしぼりが出てきて、お茶が出てきて…ということだけでもサービス、人手が掛かっている。お客様一人一人にテーブルセットがなされ、箸、箸置き、小皿、ナプキンなどがセットされているところもあれば、それらは「ざっくり」と机に置かれており、それぞれにとってね、というところもある。でもこれを持ってして、ある意味その店のグレードも測られる、若干なりとも人手がかかるところ。ここでいかに効率を上げていくか。

 

もちろん仕事とは接客業のみに限らないのは当然の事。接客業と事務作業とを同じ土俵で扱う事自体に無理があることは承知の上だ。が、その作業が求める「価値ある結果」に関して、人手が今までよりも軽減されることこそが、効率化の一つの帰結。対人に対するサービス業における効率も効率だし、事務作業の手作業を自動計算に変えるだけでも効率化が図れる。

…が、そうして「効率化してしまったが為に、今までそれを仕事としてきた人の仕事がなくなるから…」というだけの理由で、その手順が残っている事。要するに「効率を上げることによる雇用機会の削減」が行われることとの戦いとなっており、終身雇用を意識していたこれまでは既得権を奪うわけにもいかず、効率化の障壁ともなっていたり。

 

要するに、今までとは違う何かを生み出し続けなければ、価値を生み続けなければ生き続けていけない。同じ価値でも「今までと違うマーケット」で価値が認められるならそれも有りとしての話。そのようにして、組織も、「個人」も価値を生み出し続ける…という前提がこれまでの経済原理の根本だ。

 

こう言い切ってしまうと、それでは風情も何もない、寂しい状態だ…というなら、そこに「その人が介在することに対する価値は、同じ結果であったとしても価値が高いこと」を認めてもらえるか否かが問われるのは当然の事。「対価」を求めるならば、対価に応じた価値を提供せよという事でもある。ただし、たぶんこれは「効率化」という言葉の範疇の外側にある事ではないのか?と思っている。それは芸術や文化的なものに近づいていることになり、今で言う芸能やアートの世界の価値になる。並大抵のレベルでは、この価値は認められないだろう。いや、すでに日本のサービスにおいては、そこまで提供されているところもあるのだろうけれど。

 

とは言え、人が介在するところすべてに価値を生めるとも思っていない。そこまでせずともいいだろうとか、その程度でお金を取るなという、機械で代替できるところもある。いわば受け手の視点から見た効率化すべきポイントを的確にヒットできているかということ。サービス提供者サイドは、その部分を「効率化する」ことが必要になっているという事。事務作業においては、「全体最適」から見た「無駄作業」をなくしていけているのか?ということ。「個別最適」は時に、あちこちに無駄な手間を生むことに。

 

そうした「全体最適」を目指すことこそが効率化向上のポイント。…だけれど、実際に行われている多くは、すべての「個別最適」の積み上げになっているというのが、この国の問題かな。誰も「お国主導」など信じていないようだから。

 

オフィス街のランチから

日本有数のとあるビジネス街で働く日々。お昼に知人とランチをしに街へ出る。

お昼そのものだと込みますからね…ってことで20分ほど早めに出てきて、さて、どこへ行きましょうか?としばし歓談。昨今のビジネス街においては、たぶんどこでも、期待するどんな料理もどこかで提供されている。家庭料理風定食から始まり、ラーメン、カレー、丼もの、イタリアン、フレンチ、なんでもござれ。

じゃぁ今日は久々にあのカレー屋さんに…ということになって、5分ほど足を延ばした。

 

相変わらずその近辺の料理屋も混んでいたのだが、ちょっと様子が違う。

…。閉まっているのだ。

張り紙がある。

「人手不足により仕込みが十分にできず云々」

あきらめてその日は他の料理を模索。

 

少し考えてみるとわかるだろう。オフィス街。家賃は相当高いはずだ。であるがため、稼ぎ時のランチタイムに閉めるというのがどれほどもったいないことなのか。それをしなければ回らないくらいに人手が不足し始めているという事。

 

ふと新聞やWebの記事に注目してみると、確かに、人手不足で閉店、店舗数縮小などという記事が当たり前のように見受けられる。店側も店側できついのだろう。

働く人を集めようと思うと、単純には賃金をあげれば、寄ってくる。すでにバイトの時給はかなりのモノに。だがこれとて、そうそう簡単にガンガンあげられるものでもないのは店側の事情。いきなり倍の賃金は払えない。売り上げがいきなり倍増するはずもないのだから。

 

人口は減る。労働人口も減る。となれば小売業では当たり前の、「客単価」をあげるしかないはずなのだが、そもそもデフレの状況をまだ抜けきっていない「日本」がここにある。

 

どっちから先に…というのはもちろんそうなのだが、でも、どこかで賃金をあげないと働く気力もなくすだろう。サービスも低下するだろう。

…でも、いまだからこそ、「本当に必要とされていなかったサービス」を撤廃し、「本当に必要とされるサービス」を、少々高くても実施してみること。ここにこそチャンスがあるはず。それは、以前の経営者では考えつかなかった、実行できなかったことかもしれない。時代が移り変わったことで出てきた新たなニーズかもしれない。それを敏感に感じ、商品、サービスに作り替えていくこと。今までと同じはもうあり得ない。いや、今までと同じことは、これからは「とても高価である」ということを認識させること。これこそが、ビジネスサイドからのマインド変革なんじゃないかな。

 

#「今までと同じものをより安く…」ばっかりじゃん。

 

理解と行動

普通、人はそれぞれ、そうするとどうなるのか?ということを多少ながらも想像して行動を行う。それが分からないときの行動は、ゆっくりになったり、躊躇しがちになったりすることが普通。それが「慎重になる」とか「臆病になる」という見た目の行動名称につながっていたりする。

 

だが、そもそも「その行動の意味」が分かっていない場合もある。慣れない新人が「先輩の言うとおりにやってみた」というのがまさにこれ。もちろんその先輩の教え方如何に依るのだけれど。うまく教えた先輩ならば、その行動の中でも「勘所」はきちんと伝え、「これをするとこうなる可能性があるから、これはやっちゃダメ。これはここにダメージが出るからこれもやっちゃダメ」とポイントを伝えていたりする。でも、「手順」しか教えずに「意味」を教えない先輩がいたりすると、見た目の形しか伝わらない。なので行動としてしか伝わらず、実はその時の小さな注意点、意味が理解されずに、場合によっては大変な事態を巻き起こすことにつながりかねない。

 

でも昨今はというと、「行動する事」ばかりが優先されたり、重視されたりして、「理解する事」がないがしろにされている気がして仕方がない。理解のない行動が無事に終了することももちろんあるのだが、その理解がない故に起こった問題はどうするのだろうか?行動したものの責任「だけ」でよいのか?

そもそも昨今は、「行動する者」が、理解する時間すら与えられず、考える時間や勉強の時間を与えられず、どんどんと「形」だけになって、自発性や意味をはき違える例をあちこちで目にすることが。

最悪の場合、そうして「行動したもの」がそのすべての責務を負い、問題を社会に垂れ流している事実はないのか?

 

効率化は、局所的に効率化されたとしても、全体的に最適化されていない場合には、結果的に全体の効率が下がったり、作業の押し付け合いになる事がほとんど。それがやり遂げたいことですか?僕らの未来の姿ですか?

 

作業を習う受け手も、作業を教える送り手の側も、ともにそこの意味はかみしめる必要がある。形だけ伝えても、意味が伝わらなくては、結果的に無駄を生み出しているに等しい。

理解して、行動しよう。何が分かっていないかを理解しよう。そしてその行動を是正しようよ。

 

「ひとつ」を探しに

何か物事で問題が起きたり、トラブルが起きたりすると、原因を探し出す。あぁでも無いこうでも無いと云々したうえで、「主たる要因はこれだッ!」と原因を見つける。そしてそれに対して対処して、トラブルを解決する。

まぁこれが一つの流れになるわけだが、人によっては間違う方がいらっしゃるのは、「要因は一つ」と頭から決めてかかる人がいること。これ、昨今のように複雑な社会、事象の上に成り立っているもので、「単独原因で」ということはまずないですから。もちろん、「主たる要因」を洗い出すことの重要性は分かるのだが、「トップワン」の要因だけ何とかすれば何とかなる…モノばかりではない。そもそも「トップ」が「ワン」であるとも限らず、主たる要因は3つ…なんてことだって当然のようにある。

 

モノづくり企業の中において品質管理などをやっている人、いたことのある人なら当然だが、こうしたトラブル(モノづくりにおいては不良品)をいかに減らすか、といった原因追求、究明の道具は「QC7つ道具」と呼ばれている。対して難しい話じゃない。基本的に高校数学、頭のいい中学生なら十分に理解できる理論で成り立っているのがこの「QC7つ道具」。

仕事現場では当たり前に使われているこうした考え方も、いざ一般家庭に…となると知らない人がほとんどではないだろうか?

「原因」を探すのが必要であって、それが「ひとつ」とは限定していない。もしかすると複数要因あるかもしれない。それをどのように暴き出すのか。手順と道具が確立している。

もともと日本は「モノづくりの国」であり、「日本製」というのが一つのブランドでもあった。「あった」と書いたのは、それに胡坐をかいて、いまでもそうだと信じ続けている事自体がすでに危うい状況だという意識を持てているかどうかということ。別に確証も証拠もない。が、そもそも考えても見てほしい。日本製よりも、「安く」て、でも日本製と同等の製品など、昨今ではゴマンと見るでしょう?そもそも衣料製品、「日本製」を着ている人はどのくらいいらっしゃるだろう?あれっ?日本製が一番だったんじゃなかったの?

 

「ひとつ」とか最初っから頭ごなしに決めている人。その時点で間違っている可能性が非常に高い。

すべてを疑いましょう。子供の目を持ちましょう。なんで?と考え続けましょう。もちろん、どこかで納得する必要はあるし、時間だって無限ではない。けれど、最初っから「枠」をガチガチに固めてしまっては、解決できるものも解決できなくなる。だから、「ひとつ」を探しに行くときには、間口は広く、柔軟に。そして、それらを探し出す手順は、実は確立されていたりするということも含めて、やっぱり勉強が大切ってことに。

勉強。大切だよね、勉強。