助けられない国

労働人口が減少し、国の人口が減少し、景気がなかなか上向かない現状で、各社はなんとか「成長」せんが為に効率化を追求し、残業が廃止され、堅苦しい日々が続く。

朝の通勤時間の電車遅延も当たり前になり、遅れそうな中、不安や不満をうちに貯めながら、爆発寸前の心をたしなめる。

 

そんな通勤の途中で、誰か困っている人を目にしたら、あなたは彼を、彼女を助ける手を差し伸べられるだろうか?広い心で、にこやかな笑顔をたたえて…なんて到底無理。そもそも、手を差し伸べて助けるための、時間的余裕、心の余裕が無いのでは無いだろうか?

 

そう、突発的に誰かを助けられる為には、時間的、心的、体力的余裕が必要になる。誰かを助けたことによって、助けた側が倒れるわけにもいかない。余裕がなければ手が出せない。

会社員はといえば、助けたことによって時間的拘束を受けたりすると、会社から怒られたりすることも。となれば、命に別状がありそうである場合はまだしも、些細な事情に見えることなら、自分も余裕が無いのだから手が出せない状況。

 

効率化「だけ」を追求し続ける先には、このような状況が現れるのは、ある意味自然なことだ。だから、余裕を生み出したことで、必要以上にその余裕を使い切ってはならない。社会がギスギスし、トラブルに巻き込まれた人を「残念だったね」と見捨てざるを得ない社会を作りたいのなら別だが、幾らかの余裕を守りながら生きていくこと。

その分は、会社に供出してはいけない。自分で抱え、自分で使える分として、戦わなければいけない。

言われるがままの従順な労働者と強欲資本主義は、やがて破綻する。

 

 

ルールを守らなくなる感覚

憲法問題にしても、国会運営も、官僚の行動も…。今回に限らないのだろうけれど、特に今回の「国」に対する不安や不信の要因は、「ルールを守られないことが平気になっていく感覚」ではないだろうか。

 

国民に知らせるべき事を言わず、国民に後々知らせるべき記録を残さず、政治家であるにもかかわらず言った事が守られず、官僚も責任の所在をあいまいにし、記録を改竄、消去する。


さらに、日本人は、「日本は先進国」的スノッブになりすぎていないか。こうした嘘をつく、記録を改ざんする状況をもって、真の先進国と胸を張って言いきれるだろうか?他国を笑える立場にあるだろうか?

昨今の状況下において、隣国の行いを「なんと常識はずれな」と揶揄できるだけの品格を持っているのか?(確かに、あの国の言動、行動は非常に不思議で不誠実には見えるが、他国を言う前に)まず自国の振る舞いとして襟を正すべきところは今一度、規律とそれに沿った行動を見直すこと。

 

「オリンピック」において、ルールが守られないことはあり得ない。自分たちが自分たちの生活をする上でのルールすら守れないのに、多くの国が参加してくれるルールをきちんと運営するためにも。ルールを無視している状況ではない。だが、自分たちで作っているルールに縛り続けられていて良い状況でもない。平和ボケしている場合ではないのでは?自分の都合だけを優先するようなルールとして回している場合ではない。

 

ほら見たことか!の真意

仕事や物事を失敗した際に、知人や上司から「それみたことかっ!」とおしかりを受けることがある。だがこれ、意味のあるコメントなのだろうか?と。

 

「ほらぁー、言わんこっちゃない」とか「ほーらやっぱり」などなど言い方はいろいろあれど、結果的に相手が意図しているのは、

「ほらみろ、俺が言った通り/思った通りの結果になっただろう。だから助言したのに」

という、昨今で言うところの「マウント」を取りに来ている以上のものは何もないことが。

 

マウントを取る、というのは、相手より自分が良く分かっている、良く知っている、良く理解している…という事の明示化でしかなく、それは「相手への言葉」というよりも「自分のための言葉」としての意味が大きいのでは。

これを感覚的に理解しているからこそ、こうした「ほら見たことか!」は、相手に一番言われたくない言葉だ。

(まぁ、親が子供に、ほらぁプンプン…みたいなシチュエーションもあるけど、ちょっと上司と部下とは関係性が違うかな)

 

過去の経緯を「グダグダ」とほじくり返しても意味がない。いや、教訓として次回に生かすという意味はあれど、それ以上でも以下でもない。

前を見よう。今からうまくやるためには、いまから前へ進めるためには。

 

 

フォーカスポイント

どうやら今回の選挙の争点の一つに、「年金問題」が取り上げられそうな雰囲気だが。
そもそも2000万円という「数字」が独り歩きし始めているところに、大きな疑問を感じるのだ。

 

まず前提として、これまでに年金受け取りをスタートしてきた人たちも、その多くが「年金だけの暮らしで、旅行や娯楽も含めて安泰だ」とおもって過ごしてきた人たちはまずいないはずではないのか。なのになぜ、今回に限ってこうなのだろうか?

その一つというか、たぶん最大の要因が、「現状受給されている世代は、得する世代」という刷り込みではないだろうか?
現在の日本の年金システムは、「賦課方式」と呼ばれており、現在の現役世代から徴収された税金の一部を、現在の年金生活者に配分しているという方式になっている。
今の日本の年金システムはそうなっていないが、もう一つの方式として、「積立方式」という仕組みもある。これは、自分が老後に受け取るべき年金を自分でため込み、それを財源として支払いをするやり方だ。

どちらもメリット・デメリットがある。そしてこれまで語られてきたある意味大きなメリットが、「現状の給付を受けている世代は、払い込んだ年金保険料の数倍のレベルの年金給付を受けている」という事。これは純粋な積立方式ではありえないだろう。

さらに、賦課方式のメリットは、「仕組みしては、若者がいなくならない限り破綻しない」ということ。もちろんこれは「仕組みとして」破綻しないだけで、それによって「十分な年金配分が確保できる」という意味ではないところがポイントだろう。

 

そして今、その「十分な配分」というところに焦点が当てられている状況。

だが、落ち着いて考えてみよう。そもそも計算の根本が、65歳で引退してから90歳や95歳までの25年、もしくは30年間の間に、ずっと年金が受けられるとするなら…という前提で計算されている。この25年に受け取れる年金はというと、いわゆる厚生年金給付を受ける予定のサラリーマン引退世帯として考えてみると、ざっと年額200万円として、25年で5000万、30年で6000万円。それにたいしての今回の発表は、「平均値で」だいたい2000万円くらい足りないぞ、という発表だったという事。

これに文句を言うという事は、引退した後に、5000+2000万円である7000万円、もしくは6000万円+の計8000万円を、「どの高齢世帯にもばらまいてくれ」という事を訴えていることに。


そこで問いたい。その人たちは、労働者時代に、いくら収めてきたのだろうか?そもそも2000万、3000万を収めてきていたとしても、5000万、6000万もらえる前提自体が未来永劫担保できるわけはないでしょう?システム自体が破綻している。

2000万円用意できていなかったとしても、それでも、昔なら「払い込んだのと同等くらい」と言われていた部分が、実は平均余命が伸びていることによって、少なくとも今の50代くらいまでは、年金はもらい得になりつつあるということ。裏を返せば、それは若者から搾り取りすぎていないかという事。

 

既得権者は、自分の権利だけはしっかりと主張し、決して譲らないのは人でも国でも同じこと。でもそうすることで、少なくともこの国の未来、若者の未来を、搾取しているという事。

 

 

蜘蛛の糸

芥川龍之介の有名な短編小説の一つが、蜘蛛の糸。小学生でも知っていたりする有名な逸話としての意味もある。

そして、昨今の2000万円の議論などというのは、まさにこれに匹敵する議論ではないかと考えてしまう。

 

日本政府が作り上げた仕組みとして、定年退職後においては、それまでずっと払い込んでいた保険料を鑑みて、「年金」という形で、年老いた時点での生活を賄うというシステムを作り上げている。いわば、老後の生活を支える「蜘蛛の糸」ともいえる。

太くはない。年々細り続けている糸ではあるけれど、糸がなくなることはない。ただ、だんだん細く、弱くなってきているのはみなの周知の事実ではある。だから「その一本だけ」で、みんなが助けられるわけではない。

 

下界の民は知っている。自分が退職した後は、あの糸に頼って生きていこう。その意味では「蜘蛛の糸」ではあるけれど、権利を得るために払い込んだ人それぞれに「糸」が下りてくる。それを誰かと奪い合う必要はない。自分の一本に寄り添うだけで良い。

 

だが、もとをただせば、無限に糸を吐き出せるわけはない。大元は有限であり、その太さには限界がある。なので、下にぶら下がる人数が増えれば均等に振り分けるには、一本あたりは細い糸とならざるを得ない。

下界の民は知っている。そんな細い糸ならば、すぐに切れてしまう。もっと太い糸を下ろしてくれ…と言いたくもなる。

だが実は、その糸を作っているのは、退職した自分たちの下で働いている若者たちだという事。すでに「糸」を作る人口が減りつつあるのに、糸そのものを太くしようとするならば、いずれ糸は細く細くなって、誰の頼りにもならない糸の太さにならざるを得ないという状況。

これを、「若者と老人」という世代間対立に持ち込むのか、いやいや「全世代が一丸となって、貧しくなるのに抗おう」ということで、効率化を目指す社会を進むのか。