勝ち取ったもの、与えられたもの

勝ち取ったものは、そうそう簡単には失わないし、失えないもの。

与えられたものは、簡単に要らなくなったり、不要になったりもする。

実は「得たことによる価値」は、「得るための努力」によって、その一部ができているんじゃないかと思うくらい。

 

だから何にせよ、精一杯「努力をしてそれを得た」人は、「それ」を大切にする。けれど、それが案外簡単に手に入った人は、簡単に手放したりもする。そう考えれば、「その価値」は、絶対的価値観ではなく、その人にとっての価値観でしかない。周りから見ればなんと勿体無い…と思っても、相対価値だから、当人にとってはなんてこともない。

 

自分にとって大切なものだからと言って、他人にも大切とは限らない。

自分にとってスゴイ事であったとしても、他人には何でもない。

逆に、自分には当たり前でも、他人には物凄い技術であることもあったり。

自分では毎日やっている事でも、他人には初めて見る珍しいこともあり得る。

 

自分が決めているモノと、他人が決めているモノと。この二つを混同したり、取り違えたりすることで、事実を読み違えたりもする。だから、「誰の立場で」考えるべきか?「誰の価値観で」進めるべきかは、時々に応じて、よく考えたほうがいい。あまりに他人におもねりすぎるのもおかしな話だし、自分に固執しすぎるのもこれまたおかしな話だ。

 

要は、よく考えろよ、という事に尽きるのだが。

あなたの「持っているもの」は、何ですか?

「点」をいくつ持っていますか

皆さん得意なことは何だろう?世界ナンバーワン…なんていう得意な何かを持っているのならそれこそ文句はないけれど、そこまで出なくてもいい。クラスの中で、部署の中で、ちょっと「これならあの人に頼もうか/聞いてみようか」と言われる程度の事、何かあるでしょ?

たとえばおいしいお店を知っているだとか、お酒に詳しいだとか、スマホのアプリは何でもわかるとか、PCの設定ならどんとこいだとか。料理が得意なんていうのも一つの特徴。だけどそんななんでも料理ならと言わずに、たとえばお菓子作りは得意とか、キャベツの千切りなら任せとけ…なんてところまで細分化してもいいかもしれない。

テレビドラマはどれも一通り知っているでもいいし、アニメ番組は任せなさい!ロボットものなら詳しいよとか、特撮ならなんでもござれもありでしょう。認知度の高さからするとジブリものだと任せて頂戴というのもありでしょう。

 

どれもがきっと、世界ナンバーワンではないかもしれない。仲間内ではちょっと詳しい、頼りにされている程度かもしれない。そんな10人、20人に一人という程度の小さな「力」。でも、そんな「小さな力」でも、10人に一人というAという力と、Bという力と、Cという力と、Dという力を同時に持ち合わせているのは、もしかすると10000人に一人かも。その組み合わせで、なにか価値が生み出せませんか?

 

点は複数持っていてこそつなげられる。まずは、友達に、仲間に自慢できるような点を持ちましょうよ。それが一つなら平凡かもしれないけれど、いくつか組み合わせたら、「その組み合わせのいくつかの点を持つ人」は、非凡かもしれないですよ。

 

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分からない のは何

最近(に限った話でもなさそうだけれど)の一つの傾向として、「分からない事を、すぐ分かるように」なろうとする流れがあるような気がしている。

中学の英語が〇時間で、とか、日本の歴史を〇時間…とかとか。

別に過去のあの時のみならず、わからない経済が一気に見えてくる…、決算が一目で読めるようになる…なんてのも同系列だろう。

 

別に裏付けデータを持っているわけでもないけれど、そうした類いの本での売れ行きはというと、文系(英語、歴史、経済等々)>>>>>理系(物理、数学、IT等々)なのではないかと想像するのだが。

 

キャッチーでポップな言葉が書店店頭に踊り、思わず手に取って中身をパラパラ見てしまいたくもなるが、個人的には最後の一押しが足りない。たぶんそれは、上記に書いた、文系系列の本が売れている事にも関係している気がしている。

それは、「たったそれっぽっちで分かった気になったところで、満足できるのか?」

 

たぶん、そうした本を手に取る人/時は、そもそも「自分がその分野で何が分からないかが分かっていない」時なのではないか?だから、それを読んで「あぁ、ここが分かっていなかったんだ」と理解する。たぶんそこ止まり。きっと分かっていなかった周辺景色が見えるようになって終わっていないだろうか?

 

本当に何かをわかりたい人は、「自分が“これ”をわかっていない」ということをわかりたい。その「今わからない事が何かが分かっている事」までは理解していたりする。

でもそれは「わからない事の本質が分かった」のではなく、「わからない事が何かが分かった」にすぎず。それを理解しようと突き詰めていくと、さらなる分からない事がいくつも出てくるという事。これをもって分かったと勘違いしてはいけないこと。

まぁ、世の中はその程度出回っている、と言えなくもないのかなぁ。

 

 

キャンバスはその中

誰かに物事を説明するのが、とってもうまい人がいる。その人はどうやって、どの部分に工夫をして話をしているんだろう?

 

何を説明するにせよ、説明を受ける相手が理解できるように…とは良くいうものの、理解とは何か?それはその人が思い描けるように、その人の中にイメージが出来上がるようにではないのか。

 

たとえば、「象」という動物か何かも知らない人に、象を描いてみろと紙と鉛筆を渡したところで描けるはずもない。それはその人の心の中のキャンバスでも同じこと。だから、その人の知っていそうな事象にたとえ、その人の心のキャンバスに、その人が絵を描けるように話をしてあげること。

それはたぶん、その説明を受ける人が見てきたこと、聞いてきたこと、すでにほぼ理解していることになぞらえてあげる。その右側、左側、上、下、前、後ろを明確にして、一つ一つの事象を説明する。

要するに、その人の心の中のキャンバスに、その人と一緒になって絵を描くことができれば、その人はきっと理解しているだろう、ということ。

実際に説明したことを物理的に絵に描いていれば、それを見て、分かっていないところをフィードバックしてあげるわけだが、心の中のキャンバスは覗けない。だから逐次確認しながら。

 

その証拠に、一度絵に描けたことならば、順序がバラバラであろうと、その心のキャンバスの絵の隅から隅までを、言葉にして話すことができる。自分の中にインプットしたことを、再びアウトプットできるかどうかで確認できる。

 

だからみんなが「お絵かき大好き」になれば、さまざまなことが理解できるようになる…はず(笑)。もちろん、好きな絵もあれば、嫌いな絵もできるだろう。でも、まず理解する事から始めないですか?

あなたも、誰かの心のキャンバスに。

効率を語る前提

かなり前、当時の上司に聞いてみた。

「効率よく仕事をせよとおっしゃるなら、今日のゴールはどこか?」

これは、そのプロジェクト/仕事のそもそもの計画がきちんと立てられていないと答えられない事。

 

多くは、そのプロジェクトにおける全体の締め切り、納品日は決まっている。するとそれにしたがい、それに至るまでの手順が決まり、中間の締め切り日がそれぞれに決まる。それが決まれば、今月中にしなければならないところが見え、今週中にやらなければならないところが見え、今日の目標が決まる。それが今日のゴール。それが今日の効率を図る「分母」になるはずだ。もちろん、1日ごとではブレが大きいところもあるので、1週間、1ヶ月ごとでも効率を図る。

 

そもそも、「今日どこまでできればいいのか?」が見えていない仕事で、「効率」とか言われても、何で「判断」するのだろう?それがなければ、早くできたから定時に帰るとかいった話がそもそも無理ではないですか。

 

と、そんなことを上司に「直接的」に聞くと、たいてい「事故」に合う。そもそもそんなことが理解できている、見えている上司であれば、今そんなに大変な状況には陥っていないはずだしね。

 

今の多くの現場は、そもそもほとんどが「工数不足」。できる工数に対して、そもそも詰め込みすぎ。それを解消せずに、現場に押し付けて「頑張れ」というのは、それは、マネジメントの放棄にほかならず、現場の役目ではなく、マネジメントが手当てすべき役目がほとんど。

…と、こう書くと、マネジメントと現場との確執が生じ、大変なことに。だけど、そもそも作業量が標準工数の何倍オーダーで爆発しているのは、マネジメントの責任。現場はせいぜい、10%オーバーくらいまでをどうケリをつけるか程度までの効率化が手いっぱいじゃないだろうか。

 

という事が分かっていないマネジメントが現場を指揮すると、負の連鎖がずっと続くわけで。

そんな現場で残業規制したって、マネジメントの頭の中が切り替わらなければ、いつまでたってもどうどうめぐりでしょ。