価値観

すっかり日常になった100円コーヒー。コンビニがサービスを開始して以降、日々お使いの方もいらっしゃるだろう。もともとはというと、ファーストフードの方が100円でのサービスを開始したのは早かったはずだけれど、今はと言えばコンビニのサービスの方が認知度が高いのではないだろうか?

 

こうして日々使っているサービス。日常の一部として使っているサービスなので、その支払いにも躊躇なく。

 

これに対して、今まで使っていないサービスに対してなかなかお金を支払わない、というのが一般的な傾向に。たとえそれが、100円200円であったとしても、「で、それ、意味あんの?」なんて返事が返ってきたり。

 

こういう返事が返ってくること自体、「その価値」を今まで考えていないという事実でもある。

たとえば、昨今皆さんの手元には、たぶんここ数年分の思い出が詰まった「アルバム」や「個々の写真」があるのではないだろうか?首都圏では、スマートホンを使っていない人がいない空間がないくらい、どこに行っても、どの場所においても、皆さんがスマートホンを使っている。そしてこれは「スマートホン」という名前がついているけれど、実質的には、「カメラ」であり「写真のアルバム」でもあるもの。人によってはその1台の中に、数千枚の写真が入っている人も普通にいる。

これが、「スマートホンをなくした」り、「水没してデータ復旧ができなくなった」りしたらどうするのだろうか?ものごと、トラブルが起きてから対処するのは大変だし莫大なお金がかかるもの。

 

でも、たとえば自動でバックアップを取っていたりすると、これら写真データを別のところに丸ごとおいておくこともできる。自宅のパソコンに、という形なら追加費用は掛からないかもしれない。が、さっこんのスマートホン事情だと、そもそも自宅にパソコンはなくて、バックアップのためにパソコンを買うとか無理だし…という人もいる。

そういう人も使えるサービスとして存在するのがクラウドサービス。費用はいろいろあるけれど、月々数百円規模で、大事な「思い出」としての写真やアルバムすべてを「雲の向こう」に丸ごとバックアップできる。たった数百円、コーヒー数杯分でしかない。…が、それが「理解できていない」から払わない。

 

でも、もしスマートホンを壊してから、無くしてから、復旧するための費用と時間や手間を考えたら?月々数百円は高いですか?安いですか?いえ、いいんです。それが高いというのなら、それが(たとえば)あなたが「あなたの思い出の写真につけた値段」なのですから。

 

みんながみんなそれに費用を払う必要はない。それぞれの価値観に応じて支払えばよいこと。でもそれすら考えたことがない時、実は大きなリスクにさらされている、たったコーヒー数百円で大きな安心を変えるかもしれないのを見過ごしているかもしれない。…という、たったそれだけの事。

知らない…って、「高価」なんだよね(笑)。

それはきっかけに過ぎない

よほど当たっている企業やサービスに従事している人なら良いのだが、そうでない人、自分のやりたいことがその組織の中でできていない人はゴマンといらっしゃることだろう。

IT系などで時々拝見するのは、そうした人たちが勉強会などと称して有志が集まり、互いに発表し、その成果を持ち帰って自身の仕事や活動に生かすこと。それも同じ会社の中でだけに限らず、時には業界内で、場合によっては業界を飛び越えてまでそうした仲間で集まり、新しい芽吹きを目指すこと。みなさんもそうした取り組み、お誘い、結果のBlogなど見たことはないだろうか?

 

そのうえでお聞きしたい。で、いったい「あなた」はいままで何回そうした場面に、自ら率先して足を運んだことがあるだろうか?

 

なんとなく誘われて、とりあえず一人じゃいやだからと付き添いのつもりで…などいろいろと言い訳もあるだろうが、それも自ら率先しての範疇には入らないだろう。自分が「行きたい!」「これは見ておきたい!」というものに、自分から何度足を運んだだろう?

 

多分多くの方はただでさえ忙しい日々、時間を工面するだけでも大変だ。さらに自身の仕事とは関係なく開催されるそうした集いは、その次の日に大変なミーティングがあるとか、次の日早朝から重要な会議があるなどという事はいっさい勘案されない。であるからこそ、そこに出るのは大変になる。面倒になる。でもそれを乗り越えてまで、そこを見ておくこと、そこに参加する事に力を注げるか?

さらに言えば、出ることで刺激を受けた…はいいが、さて、それが次のアクションにどれだけつながっているのか?

本当に会いたいもの、出会いたい事、自分の価値になりそうなものは、もちろん偶然降ってくるものもなくはないだろうけれど、圧倒的に自分から仕掛けていく他ない。自分から取りに行くしかない。それはそれはエネルギーの要ることだし、勇気だって要るだろう。

そしてその結果が、次のアクションにつながるのか?

そこで学んだ内容を生かして次のアクションを取る。何かを作ることもいい、調査に入るのもいいだろう。が、(私もそうだけれど)多くは、なんとか頑張ってそれに出席して「いいことを聞いた。ふぅー」で次のアクションに入るまでもなく、また忙しい日々が始まるのみ。

 

それはきっかけに過ぎない。その「きっかけ」を契機に、次のアクションに踏み出せば、そこから歯車は回りだす。いや、回さなければ次には進まない。歯車が回りだすまでは、「自分で歯車を回して」いかなければ、誰も歯車を回してくれない。

この歯車がこれからも勝手に回り続けるところまで、我慢して回し続けられるかどうか。

あなたの歯車、ここしばらく、止まっていませんか?

 

安さのブラックホール

価格、それは経済指標の一つに過ぎない。

他の付加価値はないのか?というともちろんある。他よりも先にという、いち早い投入という指標。品質が高いという指標。これらがそれぞれ、コスト、デリバリー、クオリティと呼ばれ、仕事の現場ではQCDと呼ばれる。

この3つの指標はそれぞれに相互に関連しており、品質をあげようとするとコストがかかったり時間がかかったりする。なので、少しでも早く市場投入しようとすると、品質が低下したり、少しでも安く市場に投入しようとすると、安かろう悪かろうとなる場合もある。そうならないようにするために、マネジメントを工夫したり、マーケティングを工夫したりもする。

 

ただ昨今は、どうしても「第一基準」として、価格ばかり、いや、価格「だけ」が取り上げられることが大半。それは昨今のモノづくりのやり方が、すぐにコピーしたり、真似したつくりをしやすい環境があって、品質重視で(特に最初にその商品を投入するために、開発研究費をかけすぎたりすると)後から追随してくる企業を振り払えない状況になっていることにも一因があるだろう。

 

昨今、金銭的価値ばかりでしか評価しない、評価されない状況。ニワトリ卵の関係ではあるけれど、安くするから惹かれる、という点はある。違う言い方をすれば、「安い」以外の魅力を作れなくなってきている企業がそこここに。「うちの魅力は、安い以外に〇〇です!」と胸を張って言える企業がいったいどのくらいあるだろう?

 

繰り返すが、安いは「一つの」基準に過ぎない。だからそれ以外の基準で魅力が出れば、たとえ安くなくてもみんなはそちらになびく可能性はある。但し、すぐにマネをされては安さに持ち込まれる。だからすぐにはマネされないような魅力でなければならない。

マネのされない、安さ以外の魅力を探すこと。…なのだが、これが難しいのですよ。しかし難しいからとこれをあきらめた瞬間に、「安さのブラックホール」に飲みこまれることに。

個人のアイデアや考えでは限界が出て来る。それを誰か「だけ」が考えれば済むものではない。だからみんなで考えませんか?新しい価値を?もしかしたらこれまでは「お前はそんなこと考えなくてもいい!」と怒られていたかもしれませんが、それこそが「安さのブラックホール」に流れるという事につながってきてるでしょ。ここであきらめたら、たぶん終わる。…いや、かなり終わりが見えてきている感じさえするけれど。

良かったのはあの頃

この先に期待する未来が見えなければ、当然のように過去の栄光を懐かしむ。

あの頃はよかった。今はどうだ(こんなにひどい)という事に。

だからこそ、先に進むことをやめ、今よりは良かった以前に戻ろうとする。このまま進んでも期待が見えないから、前に戻してくれという。

 

もしかすると、それは現在の経済理論の限界なのかもしれない。その先にいくら小手先で対処したところで、理想のように未来がバラ色に発展しそうにない。富は一部に偏り、貧しいものはいつまでも貧しいままに。

だから世界が逆回転し始めている。今より良かった過去に戻ろうとしている。

 

だが、賢いものは歴史から学ぶ。と見てみると、一つに集まろうとして理想が崩れ、やがて離散したはいいものの、でもやはり効率を求めてもう一度一つになろうとする。

要は振り子のように、右から左へ、左から右へと振れている。

一番端にいる時には、スピードは遅くなり、安定しているかに見える。が、いったん逆方向に振れだすと、ドンドンとスピードは上がりだし、止められなくなり、ふと気が付くと全く反対の側に行きついている。

左右の中立ポイントである「真ん中」は一番勢いが強いところであり。「真ん中」というバランスが良いところで居続けようとしても、あっという間に反対側に触れていってしまう。それが振り子。

バランスが取れていること(中心に近い事)に安心していては、たぶんあっという間に「あちら側」に持っていかれる。バランスがよさげなところは、一番変化のスピードが速いところでもある。

 

すでに彼の国は対極で固まり始めている。ヨーロッパも変化が起きそうだ。

過去を問い詰めることの重要性も分からなくもないが、それができるのは余裕がある時だけだろう。

この国の行く先は?あの頃の方が良かった…って思ってる人、少ないですか?

あの頃を超える行きつきたい先は有りますか?

それを決めませんか?

会社や組織で上手くいっていないと、上手くいくようにする「新しい施策」が検討される。こうすればいい、こうやればいい…。すったもんだの末に新施策が決まり、それを進めていく。これはこれで問題がないわけではないが、まだいい。

他方で、そもそも止めることは決めない。

以前から行っている「それ」をやる事と決めたのがだれなのか?誰の権限で進めているのか?調べるのもめんどくさいし、そもそも調べられる状況にもなかったりして。さらに止めたとしたとき、その背景情報がよくわからない人から突っ込みが入ったときの対処もめんどくさくて、結局止めない/やめられない。

 

本当にみんなが、今何にもしていない事ならば、すでにやめているのと同じこと。だからそれは、わざわざやめる事をきめなくてもいいのかもしれない。だが多くの場合、若干なりともやっている人が残っていたり、それに意義があると多少なりとも思っている人が残っていたり。そういう人たちすべてにつつがなく情報を提供し、周知徹底させるのは至難の業。であるからこそ、「やめる」と言えば角が立つ、反発が起きる。たとえばそれが面倒で「やめる事」を決めない。

 

確かに、それまで信じてやってきた方からすると、なんて勝手な、冷徹な判断だと怒りがこみ上げる。これはこれまでのこの国の働き方とも関連するだろう。すでに事実上崩壊している終身雇用という、一度働きだしたら死ぬまでその組織で…という形なら、同じ仕事をし続けることが一つの意味だったかもしれない。が、すでに社会も経済もそれでは回らなくなっている現実がある。いかに時代に乗り、急カーブをぶつからずに曲がれるように組織運営ができるかが競われている社会。そんな中で、価値の出ていないところを持ち続けるのは、組織運営側からするとそこは「お荷物」に変わりない。が、これまでの運営は事実上、そこと折り合いをつけて、持ち続けるしかなかった。だからこそ、サラリーマン上がりの社長は、そんな過去の遺物にうまく見切りをつけられずに成果を出せない。他方、外資系のトップが冷徹にザクザクとやめることを決め、切り離していくと、それはそれで成果を出している、というこれまた現実がある。

 

社会が変わった、時代が変わった、経済も変わった、だから進め方も変えざるを得ないということだ。だから「働く側」も昔ながらにしがみつき続けるのではなく、賢く変わろうではないか。そんな組織や集団だとわかった瞬間に、いかに素早く「こちらから」見切りをつけるか?すでに日本は転職は当たり前の国。一昔前とは違い、一つの会社で終身でという生涯を全うできる人は、たぶんほとんどいなくなってきているのではないだろうか?

派遣会社全盛の時代だという事からしてもその通り。だから、「こちら」の覚悟を決めておくに限る。(その際のknow-how話は、また別の機会に)

 

いつまでも、昔ながらの夢を抱いているのもあなたの人生。現実を見つめて、自分を変えていくのもあなたの人生。何をやるのか、何をやりたいのか、だからどうして行くのか、それを決めて、それに向けて動いていきましょうよ。あなたの手綱はあなたが握っているのですから。