作業者とクリエイターの狭間で

仕事を請け負うと、発注主の意向に応じてドラフト版を作り、それを基にして詳細部分を詰めていく、と言うのが1つのパターン。ここをこうしてほしい、こっちはこんな風にしたい…。発注主の意向に応じてああしたい、こんなふうがいいという意見を取り入れる。とは言え、こちらはその分野では専門家で、「…とおっしゃるけれど、ココはこれしかできません」とか「この方が実は都合がいい」などと意見することが通ることもある。ま、たいていの仕事はこんなものか。だがこれだと、受注した内容に対しての技巧を凝らした作業者の域はなかなか出ない。

 

ではクリエイターは?もちろん相手の意向は組むものの、基本的に、「おっしゃる意向に沿う形で、私が作れるのはこれだ!」と解は一つ。とは言え仕事だから、「ココはこうならないか?」「こっちをこうしてほしい」と要望も出るかもしれないけれど、基本的にそれら全体をすべて勘案して、「いや、でもこれで行ってください…」と受注側の意見、場合によっては考え方や思想を飲んでもらえるのがクリエイターではないか?

相手の言うことにすべてを鵜呑みにして調整し続けるのではなく、そこにはそれなりの主張が含まれる。それをもって作り手として何を語りたいのか、世に何を問いたいのか?それがあるのがクリエイター。

とは言え、独りよがりのクリエイターでは商売として成り立たないこともある。それをいかにしてバランスをとるのか?たとえばそうした良いパートナーが見つかれば、そのクリエイターはたぶん大成する1つのパターンなのだろう。が、なかなかそんないいパートナーと出会えないのも現実。

 

要するに、その成果に対する金を払う決定権を持っているのは発注主。成果に対して対価を支払う。作り手側はというと、すべてを言われるがままにするのか、いやどこまで自分の主張や思想が盛り込めるのか?そこに主張、意見が取り入れられる割合が多ければ多いほど、クリエイターがクリエイターぜんとして成り立つのだろう。いわゆる名の通った建築家と、そうでない建築家と。

その昔の王侯貴族の時代から、パトロンがいて成り立って来たのがクリエイター。相手の意見も取り込みつつ、とは言え主張や意見が反映され、とてつもない技巧で実現するのがクリエイター。並大抵のものでお茶を濁すのとは出来が違う。だからこそ、成果でパトロンを言いくるめ、自分の主張が通るのだろうけれど。

 

理解してくれるくれないにかかわらず、そうした活動に対価を支払ってくれる誰かがいてこそクリエイターは成り立つんだよね。無料(フリー)じゃ存在できないんだから。力技で理解させるのか、丁寧に説明して絡め取って行く…ってても、ないわけではない。

 

多段式

昔はというと、スペースシャトルの打ち上げなど、宇宙へ出るためのロケットなどの情報が珍しかったこともあり中継されていたりもしたけれど、昨今はある意味、宇宙へ出るのも特別ではない事となっているのだろうか。あまりそうした情報を目にすることがない。すでに日常なのかな。

 

ロケットで地球から宇宙へ出るには、多段式のロケットで打ち上げられるというのが当時のパターン。それはなぜかというと、地球という重力圏から出るために、最初に大きな出力であるということと、その後の周回軌道や、目標に向けた軌道に乗るための微調整は、そうした大きなエンジンではやりにくいといった、適材適所におけるエンジンの使い方が検討された結果、そうなっていたんだろう。その時々の環境に応じたサイズのエンジンの使い方。

 

たぶん、人生もそうだろう。がむしゃらに新人時代からずっと同じ働き方で、定年まで働き切る人はいない。最初は力わざかもしれないが、その後に力を入れるところ、抜くところを学び、テクニックを学び、その年齢、経験に応じた働き方に変わっていく人が多い。ある意味自然な事だろう。

そしてさらに昨今必要とされているであろう働き方は、周りの環境変化が激変している時代に即していくという事。たぶん、新入社員で入ったときにはなかった職種が、10年後には生まれているだろうし、逆に10年前にはみんなが当たり前に仕事として成り立っていた内容でも、今はそれは仕事としては認識されない、成り立たない雑事になっていたり、場合によっては機械に置き換わっているのかもしれないという事(たとえば古くは、改札口で切符を切っていた人、回収していた人…とかね)。

 

緩やかに変わるのも一つだけれど、人間側でも意識して積極的に変えてみても悪くないんじゃないかな。たとえばざっくりと、20年一区切りとかで。

大まかに、20歳、40歳、60歳を一区切りとして、そこから自分の人生をいかにシフトチェンジするかを考えておくこと。別に20歳でなくてもいいかもしれない。大学卒業の23歳、会社で中堅どころの45歳、定年退職後の65歳でも何でも構わない。こうして例えば3つくらいのターゲットを置くことで、そこまでをどう過ごすか、それ以後をどう過ごすか、どうやってその先の人生を送るのかを事前に描く、準備することができるだけで、物事のとらえ方が変わってくるし、「準備」ができる。

 

そう、「準備ができる」というのはとても大きなこと。これなしに明日から何かに取り組め、と言われても、「明日から」はムリ。だが、準備期間があればたいていは何とかなるものだ。

準備をできるようにするためには、準備を意識した設計、計画をする事。そのための一つの考え方としての、多段式ロケットのような、どこかで一区切りをつける考え方。

 

「もう遅い」と言ってしまえばすべては終わる。準備期間が短い人であったとしても、「今からその短い間」でも準備が整えば、それはそれで対処の仕方はあるもの。あきらめるとそこで終わるよ。

そして準備するには、どんなことになるのかな?と想像したり、考えておく必要が。その程度であっても考えること、意識できてるかどうか。

 

期待レベル

自分が傷つくのは、期待に答えられなかったとき。期待を背いたとき。だから、期待さえなければ傷はつかない。ハードル なんて言う言い方もするよね。

でも、「何にも期待しない/できない未来に進みたいか?」と問われると、それもないんじゃないかな。何かしら「期待している先がある」から前に進みたい。

こう考えると、どう期待するのか、どこまで以上に期待を「膨らませすぎない」のかがポイントになるのはお分かりの事。

 

まず間違いなく叶わない夢を追い続ける…のは、それはそれで意味がない。

でも、「叶わない…」となんとなく思っていても、実はステップを踏めば、よく考えて筋道を立てれば「到達できるかもしれない夢」として計画できる人もいる。そういう人が、大きな夢へと進み始めることができる。たとえ時間がかかろうと、そこへ行く筋道が見えているのだから。

なんとなく、「できないさ」「無理だよ」とあきらめてしまっていると、いつまでたってもできるわけがないし、そもそも取り掛かりもしないだろう。

 

だからやっぱりまずは夢を持つこと。そこへの多段階ステップを描くこと。そのためにはその夢をより具体的に思い描き、そこに至る調査をし、そこまでの段階を考えたり、学んだりする必要がある。もちろん一人でやらなくてもいいかもしれない。誰かの助けを借りるのも一つの手だ。が、もちろん自分でも努力をする事。「誰誰が何にもしてくれないからぁー」と放り投げたら、それはすでに自分ごとではなくなる。

夢を持つ、期待を持つことは大きなエネルギーだ。が、それを考え抜かなければ、エンジンを回すためのエネルギーには変換できない事もある。

 

夢。別に若者だけの特権ではないでしょう。いくつになっても何をしたいか、夢を持っていてもいい時代。どの年齢においてもあきらめたらそこから先は閉ざされる。したいことがあれば、それについて考え、調査し、実行し、進めていってこそ期待が具体化していくもの。

 

夢を持ち、期待をし、考え、ステップ化して、実行していく。

道のりは長い。

 

 

標準

今年の桜。東京は3月21日あたりに「開花宣言」がなされた2017年春。これを聞いて多くの人は、「おっ、今年の桜は早いのか!」と思った人多数。

にもかかわらず、寒い日は続くし、なかなかコートが手放せないぞ…という日々が続き、4月になった昨日今日でも、一部の地域を除き、なかなか桜は咲いていない状況の場所も。結果としては桜の開花状況は例年より遅れているところがほとんどであり、場所によっては「桜祭り」などと称してライトアップする時期を再調整したりずらしたり…とけっこういろんなところに弊害が生じている感覚。

 

そもそも、「標準木」という桜の開花の基準となる木は、今の感覚として本当に「基準たり得る木」だと考えてよいのだろうか?聞くところによると、かなりお年の古木がそれに制定されているそうだとも聞く。

こちら(桜の開花を決める標本木について 桜.jp)にそうした情報も書かれている。そろそろ東京における標準木も切り替え事も検討すべき時期なのではないだろうか?

 

そもそも「標準」というのは何をもってして標準なのか?ということ。物事の基準として成り立つべき基準を示す情報であるべき必要がある。とするなら、それは時代とともに変化してもおかしくないモノもあるのではないだろうか?

「1m(メートル)」や「1g(グラム)」といった長さや重さといったものは、時代によってうつろってもらっては困る。しかし季節変動や、相対的価値に関しては、まさに環境や状況により変化するもの。その環境や状況の変化に応じて、「基準そのものの相対位置を調整し続け」なければ、そもそも「基準」としての意味をなさなくなるのは当然の事。

 

日本における株価の代表的指標としての日経平均(日経255)とは、市場の255の代表的銘柄をもとにして決められており、その255は時代によって調整の上入れ替えられているのをご存知の方もいるだろう。時代を表さなくなった企業の株価が基準である「そこ」に入っていては時代を表していない指標にもなりかねない。昨今の、老舗企業の不祥事や株価低迷などはまさにそのような状況そのもの。ここにも当然ながら栄枯盛衰が存在している。

 

だから、「標準」とは、「今を表す」ための、これまでの流れに沿った同じ位置にいるであろう基準を表すものでなければならない。時代ごとに移ろって当然の事。

ただ、桜のような生物の場合には、すぐに同じような環境、過去の計測記録…などから考えると、ハイ今年からこれね…と乗り換えるのはむつかしそうだけれどね。

 

今年のお花見は、今週いっぱい楽しめそうかな。

 

 

 

仕事が面白くない人へ

すでに4月。新しい年度に入り、日本では新入社員が跋扈し始める季節。それが良いかどうかは別にして、皆が一斉に切り替わることがひとつの「季節行事」になっている。

 

幾多の就職戦線を潜り抜けてきた猛者たち。自分が希望する企業、職種に着けた人もいれば、そうでない人もいるだろう。だがこれからその仕事を「どう感じるか」は、たぶんその人自身にかかっている。

 

どの職場へ行っても、どの会社へ行っても、必ずこういう人がいる。

「仕事が面白くない」

そりゃそうだ。すべて人に与えられたの仕事がすべて、自分の能力レベルに合っていて、自分の興味に合っている…なんて事自体、あり得るわけがない。だが多くの人がそう嘆く、ぼやく。

 

そういう人たちに聞いてみたい。

「a)じゃぁどんな仕事なら面白いですか?」

「b)自分で考えたことありますか?」

「c)それ実現できそうですか?」

「d)どんなハードルがありそうですか?」

 

何人かに聞いてみる…とこんな答えに。

 a) もちろん、〇〇みたいな仕事してみたいよねぇ。

 b) あたりまえさぁ、じぶんでこんなことしたいと考えていたよ。

まぁこの辺りまでは順調だが…

 c) …そうだなぁ

このあたりになると、「自分の面白いところだけでは仕事にならない」という事が徐々にわかりだしたり。

 d) …お金がね/スキルがね/時間がね…

もうそれだけで、今すぐにはムリでしょ…って感じ。

 

当たり前ではあるけれど、「美味しいところだけ」をより取り見取りでつまみ食いする仕事なんてのは存在しないわけ。美味しく見える他人の仕事も、そこに至るまでに(はたから見ると)つまらない下準備の仕事が次々にやってきて、その結果としての面白い仕事、おいしい仕事になるはず。

じゃぁその人にとってはそのつまらない仕事はほかの人にさせたかったのか?というと、たぶんそうじゃないんじゃないかな?もちろん人それぞれだとは思うけれど、「この先にはこんな状態に!」と夢見て仕事をしていた人、いるんじゃないだろうか?

 

結果、仕事が面白くない人というのは、その先に面白いことが見えていない人、見ようとしていない人じゃないだろうか?こんな面白い状態に、こんな面白いことに!と思って「未来を作っている」人であれば、たぶん大なり小なり仕事は面白く。逆に「未来を作らされている人」にとっては、やらされ仕事で詰まんないし、意味わかんないし、面白くないし。

 

主体的に、それにどうかかわっていきますか?かかわれますか?アイデア出ますか?それ、言葉にして他の人と共有してごらんなさいな。たぶん今までとは「少しだけ」でも世界が変わるんじゃないですか?