どのインデックスを使っているのか

小学校のころ。地域の図書館に行き、広い書架のどのあたりに、自分が見たい本があるのかわからなかったとき。やみくもに歩き回るのではなく、インデックスを使って本を探し、その棚のところへ行って本を見つける、という手段を教えてもらったのが、とりわけうれしかった。何か埋もれている知識を発見するような、自分だけが見つけられるような、そんなちょっと偉くなったような気さえしていたのだろう。

 

でも当然ながら、「その図書館」の中にはない本も出てくる。でも多くの場合、小学生にとってはそこで事実上の「終了」だった。あとは本屋さんに見に行くくらい。

 

でもより大きくなれば…

町の図書館で、探し物。そこで無いなら?

県立図書館、国立図書館、場合によっては私設図書館や海外の図書館も。

これらすべての情報を完全に網羅した情報は、たぶんまだない。

Googleあたりはこれらをすべてデジタル化し、インデックス化したいと壮大な夢を描いているだろうけれど、たぶん、徐々に近づきつつはあるだろうけれど、完全には決してならない。

 

そう、必ず何か漏れるし、そのインデックスには登録されていないものが存在する。それを意識できるかどうか?そのインデックスには無いけれど、世の中にはあるかもしれない事。

 

googleで検索して見て見つからない」のは、世の中に存在しない?

当然そんなことはないのだけれど、でもその意識の無い世代、少なくともそうした意識が薄まった世代は出てきているんじゃないだろうか?

確かにその「Googleのインデックス」は超巨大だ。でも、そこにはなかっただけで、もしかするとインデックス化されていないどこかには存在しているものがある。

 

ネット時代以前、検索エンジン時代以前には、そうした巨大インデックス自体を人類が共有できる仕組みがなかった。だからあちこちで同じ研究がなされていたり、資料が散逸していたりした状態があっただろう。

もちろんこれからはそうした事態は起こりにくくなっていくだろう。でも、それでも「そこにインデックス化されていないもの」は存在する。

インデックスになかったものは、この世に存在し得ないものではないという事。

 

疑う心を忘れたら、それはもう、「その手のひら」から出られなくなるという事なんだから。

改革のスタンス

日本では新年度が始まり、新しい国の在り方として、政府が旗振りをして「働き方改革」なんてのを進めている。残業規制をしよう、上限100時間…なんてのがまずはそれらしいけれど、労働者階級がそれをどのような目で見ているかを感じてますかね。

 

そもそも「働き方改革」って言うほど、「働く側の意向」で左右できるもんじゃないでしょ?個々人で働き方を変えられる職場なんてあるわけなくて。とすると当然会社単位、組織単位で変わらざるを得なくなるはずで。だから「働き方改革」を実現するためには「働かせ方改革」が進んでこそ実現できるもの。働かせる側の意識が変わらない限り、働く側主導だけ働き方なんか変えられるわけなくて。

…となった瞬間にですよ、そもそも「働かせる方」はそんなに変わりたいつもりもないんじゃないの?そもそも残業100時間ってのだって、過労死ラインを超えているにもかかわらずそこにせざるを得なかったというのはなぜだろうかと小一時間問い詰めたいくらい。

 

社内においても、そもそも働き方として、成果主義だとか言うのは簡単だろうけれど、「今の」管理職が、「成果」をきちんと割り振れる能力を持っているかというと、多くの職場では、たぶんそこからトレーニングが必要な会社、たくさんあるんじゃないですか?だって今までやって来た仕事とかなり違うでしょ?管理職さん?

 

それらすべてを、「働き方改革」として、「働く側」に押し付けるような物言いがとっても引っかかるわけですよ。「働かせ方」に枷をはめたほうが、よっぽど簡単に変えられるはずなのに、なぜそちらに力をかけないのか。ま、言うまでもないんだけどさ。

学校≠

日本では新入学のシーズン。

4月を契機に新入社員が入ってくるし、明日からは新しい学生が、乗りなれない電車やバスに乗ってくる。すでに通勤通学で「使い慣れている」先輩たちは、疎ましい顔をして彼らを見ない事。あなただってほんの数年前は、あのように迷っていたんだから(笑)。なーに、彼らの覚えは早い。早い人だと1週間。遅くとも今月中には溶け込むでしょう。

 

進学の場合、最初のうちは何かと戸惑う。学年が進級するだけなら、建物の中での居場所が若干変わる程度だけれど、小学校から中学に、中学校から高校に、高校から大学や専門学校に…となると、仕組みも変わるし建屋も変わる。ルールも変わるし周りの人たちもがらりと変わる。最初はこれになれるしかない。

 

思った学校に進学した人も、そうでなかった人も、ちょっと考えておきたいことがある。「学校」ってなんだろうか?

勉強するところ「でも」ある。でもまず間違いなくそれだけじゃない。友達を作るところ、これからの仲間を見つけるところになるかもしれない。

これは私の考えだけれど、私はこう考えた。

学校 ≠ 勉強

もちろん、学校は勉強「も」含む。でも私のイメージではそれは50%くらい。

さらに突き詰めて考えると、「勉強」ってなんだ?

「知らない事を教えてもらう事」が勉強?それなら別に塾やカルチャースクールでも構わないはずだ。そうじゃない。体系立てて、ある程度の網羅性をもって知る機会。

さらに、「知らない事が何かを知る」というところで終わるものさえある。そう、その時点では答えが出ていない事は山ほどあるんだ。

それ勉強なの?そう、勉強。今はこれが分かっていない事を知ることはとても重要な事。でもここで終わらない。さらに、「そうした、今は分からない事をどのように突き詰めていくのか、知らない事をどのようにしたら解明できるのか、その手法、方法を知ることができる」のが勉強。

 

小学校未満の子供のころ、知らない事が分かったら、面白かったこと、楽しかったこと、ワクワクしたこと、無かっただろうか?たぶん当時はすぐにわかったりしたこともあったけれど、さすがに大きくなると、そう簡単には分からない、ちょっとむつかしい理論を知っていないと解けない事もある。でも、それが分かればどれほど楽しいか、場合によってはみんなの、人類の役に立つ発見だってあるのかもしれない。それを見つける方法を知るのが勉強。それを駆使して新しいこと、今まで知らなかったことを見つけ、価値を生み出すのがその先の仕事になったりする。だから本来、勉強は新しいことがたくさん知れて楽しくて、仕事は誰も手にしていなかった価値が手にできるとても楽しいことのはずなんだ。

 

進学した人。おめでとうございます。

就職した人、おめでとうございます。

 

やりたい衝動

子供が、それもたぶん5歳以下の子供がすごいのは、

「僕も/私もやるぅ!」

という衝動だろう。

見たこと、見えた事を、自分もやってみたい。言葉が話せる云々以前からこの衝動は見える。興味を持ったものは手にしたい、触りたい。大人の目から見たら危ないことなどお構いなし。自身が傷つくことも、それ自体を傷つけることも関係なく、なんでもやってみる。まず間違いなく、だからこそ彼らは何でも理解し、覚え、知識にしていく。すごいパワー。

 

これが、物心がついたあたりから、危ない/危なくない、やってはいけない事などが分かり始めたころから、自制心が働き始める。それでも興味津々の事には体を乗り出して見たくなる。それが子供。

 

大人になるという事は、もしかするとそうした好奇心、興味をどんどんと自制させ、失わせることかもしれない。これは危ないから、あれは危険だから、壊しちゃったらどうするの?などなど、さまざまな社会的、道徳的制約で、動かなくなる。

 

そしてそこに「理由をつけ始める」。

私には知識がないし…

私には技術がないし…

私にはセンスがないし…

 

子供は、「センスがないから」と躊躇したりしない。「知識がないから」とやめたりしない。とにかく触りたい、知りたい、理解したい。

この興味、衝動を「大人のセンスとして持ち続ける」事。

なぜやらずに諦めるのか?

なぜ触らずに諦めるのか?

やってみて失うことは何?

やらずに得られていないモノはもっと大きかったりしないの?

 

新しい年度が始まった。

今年は何ができるかな。

やりたい…と心の中で思っていても、ついついめんどくさいなと後回しにしている事。

今年は、一つでも、二つでも、やってみたいな。

 

世代優遇じゃなくてさ

とある知人の社長がこう言っていた。

「私たちの世代ではどう考えても年金だけで生きていく老後などは到底無理な事。なので、年取ったところで働き続けるのですよ。」

 

ある意味正しい覚悟だろう。ある年代以上は、いかにして老後の(働かずに生きていける)費用をため込むか?足りなかったらどうしよう?などと心配している向きもあるようだ。が、こう言い切ってしまえば覚悟するのみ。足りない分は働いて稼ぐのですよ、と。

 

そもそもの当初の年金が歴史的にどのように制定されてきたか…というのは、きちんと歴史的認識を検証している頭のいい人たちにお任せする。ぜひそちらを読んで、学んで学習してほしい。その上で、僕らは年金をどう「とらえて」いるだろうか?「その年齢からは働かなくても生きていくに十分なお金を支給してくれる仕組み」と考えているのではないだろうか?

 

もちろん、人として必要な最低限の暮らしとしての保証などといった観点で、日本という国は生きることを保証している(が、これが正しく実行されているかどうか…はまた別の話だけどね)。ただその前提が、誰もが働かなくても、とか、左うちわで遊んでいても…といった、都合の良いとらえ方になっているのではないのかなぁと。

 

いや、私にしたところでもしも将来的に左うちわ状態、遊んでいても十分に生きていける資金が確保できるならそれほどありがたい状況はないかもしれないだろう。が、現実を見てみようよ。「あなた」はそうかもしれないけれど、「それ以外」はどうなるのさ?と。もちろん、そうした状況が何年も前から見えていて、それに適切に対処できなかった政治や経済の仕組みが悪い…ととらえる向きもあるのだけれど、それにしたところでそうしたことを「変えてくれる政治家」を選ぶ力を持っていたのも我々だし。

要は、自分たちでどうするか、皆ができるだけ等しく、皆が安定的に永らえるための施策を打っていくしかないわけで。そのために「誰かだけが」得をするとか「誰かだけが」いい目をするといった、特定の誰かに偏ったことにしない事、すなわち全体として最適化する事がいかに重要な事かと。

 

そのための一つの選択肢として、「年を取っても働き続ける」というのは、当然一つの選択肢。これ、年を取った人々を安く使い倒そう…などと考えると、それはそれで大変なことになるのは言うまでもない。正しく評価し、正しく対価を支払う社会にしていくほかないのではないか、という一つの選択肢。

 

年を取ると、身体も弱くなるとか、体力がなくなるというのもわかる。が、それ以外での価値をきちんと出せるように変わっていく必要が、年寄側にも期待されているということ。

もちろん、「今年から」と言ったところでそう簡単にマインドが変えられるほど人間は器用じゃない。10年15年かけて仕組みをソフトランディングさせていくしかないのは事実だろうけれど、それでもやるほかない。いや、それに変わるより良い対案があるなら、提案すればいい。良い意見は歓迎だ。

世代優遇ではなく、皆で繁栄し続ける、誰かを優遇するのではなく、皆で盛り立て続けるという事。言うのは簡単だ。が、どうしても「ここまでやってきた俺だけは楽をさせてくれよ…」という甘えが出るのも事実。これをどのように処遇するか、どのように基準を作るか…で困り果てるわけなのだが…。

俺だけは、私だけは…を考え直せば見えるものがあるはず。それ以外の多くは、勘違いした都合のいい既得権のキープが多いのだから。それ、特権層だけはっ、て話がほとんどじゃないですか。