マネジメントをミスると

ある日のオフィス街での昼食。仕事仲間と、「久しぶりに一緒にランチでも」となり、エレベーターを一緒に降りる。

「さて、どこにしますかねぇ」

などと言いながら、じゃああのどんぶりのお店にしましょうか?と双方意見がまとまった。

 

時間はお昼のピークを越えたであろう12時40分ごろか。別に特別な日でもなく、いつもの日常、いつもの人出のランチタイム。

 

そのお店に行こうと遠くから目星を付けると、ひとりのサラリーマンが先にそこに入りかけて店員と話したのち、店から遠ざかっていく。「?」と思いながらも店に近づくと、「閉店」の看板が。しかし店内には何人かが昼食を食べている様子。

何が起こっているのかわからずに、近くの店員に聞いてみる?

 

「閉店?ってどういうこと?」

「実はご飯が足りなくなって、今、追加で炊いている最中なんです。」

「何分くらいかかりそう?」

「ちょっと聞いてきます」

5分10分なら待とうと思って覚悟をしたところ…。

「すみません、早くて20分くらいかかりそうなんです…」

「あ、そうなのね。じゃ他を探すよ」

ということで、その同僚とは別の店で無事にランチを取ったのだが。

 

ちょっとした飲食店で、ランチ時に「何回転させるか」は、その店の存亡にかかわるほどの売り上げに影響するはずで。ましてや、賃料も高いであろうオフィス街において、こんな大失態をしている状況にはじめてお目にかかった。

 

これは何が悪かったのか?そもそもご飯担当のメンバーがスイッチを入れ忘れる…的ミスなのだろうけれど、ざっくり言えば「マネジメントの欠如」に他ならないだろう。

もしも別の日に、ご飯担当がスイッチを入れ忘れていても、当日来店したお客の数が少なければ、足りたかもしれないのだ。もしもいつも通り、ご飯担当がスイッチをきちんと入れる作業をしたとしても、特別なイベントなどの影響で当日来店したお客の数が以上に多ければ、当然足りなくなっただろう。

マネジメントとは、いつもと同じ「こと」をすることではなく、(この場合は)いつもと同じ「状況」にすること、この店の場合には、お客に対応してご飯が足りなくならないようにする事こそが、マネジメントだろう。だから単なる「作業のみ」に注目していては根本原因を解決したことにはならず、「状況に応じた作業」に注目して、それを解決することが望まれているはず。「決められた作業」を見ているだけでは、単なる作業管理者に他ならない。マネジメントとは目的を目指して人を動かす、人に動いてもらうこと。

 

なんてのをぼんやり考えつつ、ランチタイムは終わる。

また別の日にあの店に行ってみようか。

 

 

価値を見出す

さて、日本のゴールデンウィークはほぼ無事終了。今年の関東地方はお天気に恵まれ、あちこちに出かけたという人も多いのではないだろうか。で、いつも思う。どこへ行っても混んでるし、待ち時間は結構あるし、結構それぞれの場所で物は高いし…。でもせっかく来たのだからとお支払い。こうして経済は回っているんだよねと納得させつつ。

 

当然ながら、みんなで同時に休めるからこそみんなで楽しんだり、遊びに行ったりすることができる。が、みんなと同じであるがゆえに、「混む」とか「時間がかかる」とか「特別料金」といった別の付加価値代金を支払うことにもなる。もちろん、その方法でしか手がなければその価値はあるだろう。ただ人と同じというのはいろんな意味で損でもある。

 

誰しも同じだからこそ「混む」し、であるがゆえに「時間がかかる、待ち時間が長くなる」。そしてみんなが殺到する、その時しかないので、「特別料金」すらも払わざるを得なくなる。

 

もしみんなと違えば?

たとえば、ほとんど誰も行かない場所に行く、誰も行かない時間に行く。…とこう提案するとこう聞き返されるのだ。

「そんなことして、楽しいわけ?」

もちろん、楽しいようにするのですよ。要は、誰かから与えられた価値観を過ごすか、出なければ自分で楽しみを作ったり、楽しみを見つけたり、そこに価値を見いだせれば楽しいわけで。

であれば、同じ日に休むことができなかったり、別の休みが取れたりする人には、それなりのリターンがあるという事。まず混まないし、待ち時間もまずないし、特別料金も高い方はまずなくて、時には安かったり。

 

日本人だけではないとは思うけれど、特に同調圧力を強く感じたとしても、人と違う事に自信を持つ事。楽しみを自分で見つける事。それ楽しいの?と思うんじゃなくて、楽しくないなら楽しくする事。

 

これ、仕事も同じじゃないかな。やらされているだけなら、たぶん楽しくないでしょ?仕事。楽しくすればいいんじゃないの?もちろん、誰にでも当てはまるはずなんだけど、多少の余裕がないと対応できないのも事実。そこまでやらされ仕事に費やさなければならない状況の場合は、逃げた方がいいかも。

 

 

捨てる は 決断、持つは

「既得権」という言葉がある。文字通り「既に得ている権利」のこと。すでに持っているモノは失いたくないし手放したくない人が多い。たとえそれが形のない権利であろうと形のあるモノであろうと、ここで手放してしまうことで、もしかするともう二度と手に入らないかもしれないからだ。これを手にするのにどれだけ苦労したことか…なんて言う苦労話が価値の源泉になっていたりする。であるがゆえに「既得権」を差し出す立場の人、奪われる立場の人は大きな抵抗になる。

 

既得権は、まだこれが「権利」だから、いくら持っていても場所がいっぱいになる…ということはない。だが「既得」というのは権利のみならず、すでに持っているすべてのモノにおいて成り立ちうる。

さらに言えば、「権利」は基本的に何らかの「責務」を伴っている。だから持っているという事は、何かを果たさねばならない事もいっしょに背負っているという事。これはこれで本来は大変重たいモノであるはずなのだ。が、「それ」を持ち続けたいという人の多くの場合においては、その責務の重さと権利の重さとのバランスが取れていない(責務が小さすぎる)ことが多いんだろうと想像したりする。

 

それが権利ではなく物の場合、よほどのスペースがない限り、は無限に持ち続けられない。権利も、誰かに譲れるものもあるけれど、「あなただから」持てているモノもある。それは「誰か別の人」では意味がない場合は、すなわち譲渡できないということだ。
たまに、家族の誰かが亡くなって、故人が趣味で集めていたものが二束三文でフリーマーケットや古本屋などに放出されてびっくりしたりすることがある、というのがまさにこの一例。価値のわからない家人にとっては、どんなものであっても、場所を占有するモノにしか見えていない。

 

 こうした「既得のモノ」があふれているというのが現在。いや、消費活動を活発化させようとするなら、何らかのモノを売り買いすることによって経済が回りだすのだから、ある意味当たり前の状況ともいえる。

ただ、そうしてできた「モノ」が、これからも継続して意味を持ち続けるかは別の話だ(逆に言えば、今は価値がないものでも、今後価値が生まれてくるものも当然出てくるのだが)。

 

既得「物」としてのモノは特に、「思い出」という価値が乗っかっている部分もなくはない。が、「昔はそうだったが、今の時代にそれは希少価値も何もない」という物も少なくない。だが先にも書いたように、「今の価値」を冷静に判断しているかというと(そういう人もいるのだろうけれど)、それを「手に入れるための苦労」を価値としてあがめている人が結構いるのかも、という事。

あなたがそれに託している/持ち続けている意味は、それを「手にするための苦労」に対しての価値なのか?それとも今現在の「それ自身」の世間的に評価された価値なのか?

 

もっと言えば、そうしたことを考える事すら放棄していたりしないだろうか?価値を考えることが大変だから、考えない。でも万が一価値があるとまずいので手元においてはいるがほったらかしている、なので現実には見てくれとしてのモノが、ゴミ山のようにたまっていないだろうか?

 

断捨離が相変わらず流行している。ごく少数のモノしか持たない人たちも出始めている。モノをたくさん持ちすぎて、事実上価値のないモノ、ゴミがたまっている人は、捨てるための「判断をする」のが大変だという人。それはそこまで判断することに疲れてきた/放棄してきた人なのではないだろうか?考えるという事、決めるという事にはエネルギーが要る。何かを振り払う、もしくはこれからも背負い続けるという「覚悟」なのだらか。

 

昔のようにモノを簡単に捨てられる環境でもなくなった。分別し、場合によっては捨てるための作業にもお金がかかる現在。捨てるという事は決断でありお金がかかる事。

 

そう、「持つこと」が贅沢な事なのかもしれない。そして結構多くの人が、「持つ」という贅沢である種の満足感を得ているところがあるのかもしれない。

木 林 森

すでに今年の関東でのその時期は過ぎたのだけれど、まだ東北の方はこれからだろうか。春は花の季節、特に桜の写真が増える。SNS時代になってから、皆さんがあちこちで桜を愛でたり、ご覧になったりするタイミングで、その時の写真が掲載される。

御多分に漏れず自分も見に行ったりする/したわけだ。ただ私の場合は、そんなに大人数でつるんだり、酒を伴うというのはあまり好まない。本当に花が見たいし、景色を楽しみたい。

 

そうした一人一人がとってくる写真に、桜並木や、木全体をとらえた写真がある。それはその全体の雰囲気が伝わってくる。

それに対して、それぞれにもっともっと近づいて、花そのものの写真や部分の写真も撮られることがある。けれど相対的にはこっちは少ないのかな?少なくとも私の知人たちの中では、集合写真や全体写真が多くて、草花のアップよりも、全体がとらえられている写真の方が多い気がする。

 

木を見て森を見ず、という言葉がある。個が見えていて全体を見ない、という意味か。どうしても人間は、自分の目の前にある事ばかりを追い求めがちになり、それを成し遂げればいいことにしてしまう。だがこれは「人のサイズ」で見た話。だからこそ、人の生活、日常から考えると、自分の目の前の「景色」をとらえることが多くなるのではないか?という気がしている。それに意味がないわけではないが、他の視点もあるではないか。例えばより近づいて、より小さな「個」を見ていますか?でもそれさえ実はひとつサイズダウンした視点から言うと、全体をとらえているにすぎず、さらなる個々がぼけていたり、とらえられていなかったりしませんか?

 

全体最適を考えるのはとても大切であり、重要ではあるけれど、それとは逆のベクトルとして、個々を大切にしたり、それぞれの個性を大切にしたり。

どちらかだけに偏る…じゃなくて、常に引いて全体を、常に近寄って個々に意識を持つこと。ほら、絵を描いている人が時々やるでしょ?対象物から離れてみたり近づいてみたり、自分のキャンバスから遠ざかってみたり。 ディテールを描き込んで見たり。

 

空気を読む国

「忖度(そんたく)」という言葉がはやった昨今。まぁもうすでに下火かな。言葉はむつかしく、日ごろ聞きなれない言葉だったかもしれないけれど、市民が日常で使うなら、「空気読めや!」という事に他ならない。

 

まさに、昨今の日本を表している言葉、「忖度」。空気を読んで対処するなどということばかりがまかり通るとどうなるか?

そもそも、詳しい説明を受ける事「無く」、空気を「読ま」なくてはならない。相手の心中を推し量らねばならない。こうして「最初にその忖度の結果」を作る/考える人はとても大変なのだが、後に続く人は実は楽なのでは。

あれっ、そうなんだ、そっちの方向の考え方なんだ。…とその流れを「読ん」でその方向に話を進めたり、賛成したり。後続の方は忖度と言いながらさほど考えず、単なる選択肢の1つとしてそちらへ流れる。一度こうした流れができ始めると、その流れ自体が「力」になる。すでに忖度の域を超えて、力学の世界になっている。

こうしてその方向に流れができ、力が生まれ、そこに多数派が構築される。まさに数が力になる。

そう、空気を読む事こそ、「数のみが力」になる。

 

それに対して、本来あるべき?多数決の考え方はというと、なぜそう考えたのかという「理屈」や「理由」が提示され、理解されるべきもの。そしてそれが戦わされどちらが理にかなっているか、分があるかを合理的に判断する。その結果として、そちらを選択するかしないか。そこに「何の理屈もなしに慮る」ことはないし、「忖度」はありえない。万が一「自分がそのように忖度、想像していたけれど、当の本人の考えは違った…」としたら、取り返しがつかなくなりえますからね。

 

 

理屈を戦わせることが苦手な国、少し前に流行った、ディベート力が弱い人が集まっている、と言うかトレーニングしない国、さらに言うと、考える癖がついていない人が多い国。それは単純に「数が力」の国を生む。

 

たぶん、これからも考え続けないと「今の力」に支配され続ける。

考えることは大変だし、エネルギーが要る事なのだけれど、でも考えなくなった時点で、僕らは力に屈服してしまうんじゃないだろうか?