それもひとつの価値感

全てが価値としてカウントできている、とは思わない。だが実際には金銭として、多くは月給として、幾らかの働きに対する対価をいただいている現代。

なので、「本当に私の先月の時給は幾らだったのか?」と見てみるのもひとつ。

 

やりかたは簡単。先月か今月の給与明細を持ってきて、

(そのひと月に得られた給与)/(その対価を得るために活動していた、全時間)

で計算する。

この時に、サービス残業時間ももちろん入れるし、(これは考え方だが)通勤時間も入れてもいいかもしれない。

 

とすると、自分の時給は幾らなのか?があからさまに見えてくる。

これにより、場合によっては、自宅近くのちょっとした高級バイトの方が、実は高いことになっている?などなど、いろいろ見えてくるところはあるはずだ(現実は、正社員とアルバイトの違いによる、社会保障費など、大きな違いはあるわけなのだけれど)。

 

自分の今受けている対価がわかれば、それを基準として様々に判断してみることが可能になる。

例えば、大学の授業をサボってバイトすることに意味は?授業料から考えてみる、というのもひとつ。昨今の授業料、いわゆる私学が高いのはもちろん、国公立も結構いい値段だ。年間の授業コマ数で、年間授業料を割ってごらんなさいな。雑費も含まれているが、一コマ幾らかがざっくり出るわけで。その時間のバイト代と比較して見てごらん?何が見えますかね。そんなにバイトしてまで金を得たいなら、実は大学を辞めて働けばいいものを、という事にさえなりませんか?(もちろん、「大学卒業」というステータスをどう考えるかにもよりますがね。)

 

比べる、比較する、というのは、とっても強力な分析方法。

いちど計算してみるだけで、相当考え方が変わること請け合いでは 😁

 

やれば得られるその裏に

やれば失うものは?

時間や金、体力。そしてそれを実行している時間に得られたかもしれなかった別なもの。

 

だから全てはバーター。何かを得るということは、そこで得られたかもしれない別なモノが得られない。同様に、失わなかったかもしれない、なにかを失うことでもある。

 

「やる事」における議論の多くは、「やる事で得られるモノ」と「やらない事で得られないモノ」だけに目を向けがちだ。だからこちらにも目を向ける事。

その上で、それによって「やって得られるモノと、やって失うモノ」と「やらなかったら得られたであろう別のモノと、やらなかったことによって失うであろうモノ」の間での差分を見てみること。

それでも別なことを得るものが多ければ、それはやるべき!

 

ネガティブ情報ばかりを評価する人もいれば、ポジティブ情報ばかりを評価する人も売る。やるにしてもやらないにしても、その両方でどちらもが存在する。

 

たとえば昨今話題の飲食店での喫煙話。

全飲食店が禁煙になるとすると、今喫煙を期待してその店に来ている喫煙者が逃げていくことばかりが取りざたされる。確かにそれはそうかもしれない、が、反対に、その決断によって、今まで来なかった吸わない人は新たに来ないのか?

 

もうこれに限らず、多くの事象を「その事のみ」でとらえることによって、今得られていないメリットやデメリットがあまりに近視眼的に判断されている事柄が多すぎて。

違う言い方をするなら、判断を下すものは、近視眼的にしか見えていない者たちに「…という視点が抜けている」という視点を与えることも、立場にとっては必要なこともある。が、それをできていない人、リーダー、多くありませんか?

 

こう考えると、やっぱりリーダー教育や育成という視点が、今まで以上に必要な視点として出てきているんじゃないかなと。

「クローントルーパー」を底上げしたとしても、組織はそうそう強くならない。ましてや、今の日本は人口減少期に入ってしまっているのだから、「底上げ」も多少必要だが、「優秀な人材」、トップを育てる教育こそ急務なのではないだろうか?

 

 

 

決断は、価値、お金である。

リーダーが何をしているのか?どんな価値を生み出しているのか?ということがなかなかわからない人たちがいる。組織により会社により、それぞれに与えられている権限などに微妙な違いはあるものの、彼らリーダーが生み出しているのは、方向性の決定や、方法の選択、決断など、「何かを決める事」。そう「決断する」ことで価値を生み出している。

 

考えて見よう。目の前にある問題があり、その解法がAとBとして存在する時。そのどちらにするのが良いだろうか?明らかにAの方が、技術的、コスト的、スケジュール的などにおいて優位性があるのであれば、間違いなくそちらを選べばよい。こういう場合の決断は「楽」なのだ。が、たいていの決断においてはそうではない。AにはAのメリットがあると同時にデメリットがあり、BにはAにはないメリットがあるが、また別のデメリットも存在する。こんな時、Aを選ぶべきか?Bにすべきか?

 

これを「議論、検討し続ける事」自体もコストだ。どちらかに決定できない事で、無為に過ぎていく時間、その時間で解決できたかもしれないコストを使いつつ決断を先延ばしにする。

「会議」はコストでできている。だからそこで決断する会議にせよしない会議にせよ、皆で集まる「会議」は相当のコストだ。乱暴な言い方をすれば、そこに集まるそれぞれの「時間単価」分だけコストを支払っている時間だと考えればいいだろう。ちょっとした会議などでさえ、3万、5万と「人が時間を使う事」にかかっている費用は結構なものだ。

 

こういう人もいる。「今の情報ではAかBかどちらかに判断するには情報が足りない。さらにこういう情報を収集して、次回に決断したい。」
言うまでもないが、こうして先送りすることこそが相当なコストだ。さらに追加の作業まで発生することで、この時間で仕事が増えていたりもする。

 

とは言え、できるだけ正しい情報をより多く集めることで、より成功確率の高い判断を下したい。それがリーダーだ。ただし昨今はと言うと、利害関係者があまりに複雑に絡み合っていることから、こちらの関係者にとってはメリットでも、別の関係者にとってはデメリットという場合もあり、決断することが非常に難しい。

 

しかし、リーダーは「素早い決断を下すための策を打つ」と同時に「その決断の責任を持つこと」が仕事だ。だからその決断によってその後に動く何十、何百人の今後の作業、動作、すべてを決めてしまう。自分一人がそれで動くのではなく、何人も何十人もがその方向に動く。それが結果的に正しい方向か、間違った方向に行くのか、その影響の大きさを考えれば、「その決断が生み出す価値」は想像に難くないだろう。

 

だから、決定を覆すというのは相当な話なのだ。前回その決定になる際に、「あなたが情報を出さなかったからあなたの思う方向に動かなかった。なので、やっぱり変えてほしいと直訴する」こと自体がコストをかけていることを意識すべきなのだ。

 

決めるなら決めるで100%の解など無い。だからどこかに必ず不満は残る。それを事前や事後に説得するのもリーダーの仕事だったりする。

 

そしてたいてい、昨今の仕事は玉突き状態。何かを再結団しようとした瞬間に、それにまつわり、あちらの仕事、こちらの仕事に影響が出始める。決断されない事で、「そうなる」前提で動き出す周囲と、「そうならない」前提で動き出す周囲があって、時間が経てば経つほど身動きが取りづらくなる。

「決断」は、情報のみならず、時間との勝負。だからできるだけ短い時間で情報を集め、もしくは集まっていない情報を見極めて追加して集める指示を出し、そしてそれら情報を基に正しく判断できる人が重要になる。

その決断によって、何百、何千の人が動くこともある。場合によっては国だって動く。

 

だからこそ、リーダーの仕事は大変だということ。

全方向に向けて笑顔を振りまくことは、まずできない。

 

 

「就職」という名の

日本においては、今まで行われていたのは、「就職」と言う名の「就社」だろう。それは終身雇用制度と事実上一体となって、それはそれは日本を経済大国に押し上げると言う大きな役目を果たした事実はあるだろう。

 

だが、どの国もそうだが、いつまでも目覚ましい成長率を維持し続けることは難しい。国の状況、世界経済の状態の中での位置取りによって、さまざまな変化や影響は避けられない。となると、今の日本では、これまでほどの人員は必要なく、新たな事業領域に踏み込めなかった会社、新たな価値を生み出せなくなっているような組織は、余剰人員を切り始める。

いわゆるリストラだ。

すでにここ20年ほどで、日本は中途入社社員の割合が増えた。労働者の市場流動性が上がった。事実上、一社だけで会社人生を終える終身雇用制度は消え去っている。

 

これが「会社側の意識」だ。が、それまでの幻想にすがりたい過去にその会社に入った人々(バブル期ぐらいまでだろうか?)は、良い会社を目指す…就社を目指す。だからリストラを言い渡されたりすると、強く傷ついたりもする。この社員側の意識の人、さすがに減りつつあると思うけれど、まだいらっしゃる気がする。

 

法人は明らかに考え方を変えてきている。そのギャップ自身が、あなたにある限り、入社した後でのギャップを感じてストレスとなることすらあり得る。

社会の状況を変えない…という事はムリだ。その状況に合わせて、会社や組織は機敏に変化し続けないと、儲けは出ないし、生き残り続けられない。だが、その中で働く人々の意識が「今より良かった昔の前提条件の継続」の中で、いわゆる既得権で生き続けられると考えているなら、それはたぶん無理な話だ。

 

一部の年齢以上の方は、もしかすると逃げ切れるのかもしれないが、それも本当にごく一部だろう。それ以外の人は、「その会社」に生き残り続けるには、その会社自身の変化について生き続けるしかない。

 

逆に、自分が自分の専門で生き残り続けるとするならば、まさに「就社」ではなく「就職」として、「職」を極め続けていくことが重要だろう。であるため、その「職」が必要とされる「会社」を乗り換えて生き続けるしかない。

「職」もきわめず「今の会社の変化」にもついていかないとするなら、それは、会社と共に変化に耐えきれずに滅びる選択肢くらいしかありえない。

 

昨今、本当に10年前に比較して、労働者の流動性が上がり続けている。働き手が少なくなっているというのも手伝っているだろう。「職」や「技能」を磨くという、本当の意味での「就職の時代」になったのではないだろうか?

新入社員の一斉入社が非常に引っかかりはするのだが…。

 

 

 

 

大黒柱の数

都会なら、昨今は集合住宅に住んでいる人も多いことだろう。戸建ての家でも、今は柱中心ではなく、壁で家を支える工法などもある。

 

昔の家は、家の中心に一本の大黒柱が存在し、それを中心にして家が成り立っていた。太くまず折れることのない柱がすべての重さを支え、家として成立する。

 

これになぞらえて、家庭の経済を支える「お父さん」を、「一家の大黒柱」という事がある。ただ昨今はと言うと、「大黒柱」が大黒柱たる大きな支えにならず、二本目の「お母さん」も働きに出ているダブルインカムの過程が増えているだろう。だが考えても見れば、そもそも一家の大黒柱」として、「夫」だけの収入で成り立つ時代というのはそれこそ、ここ100年程度ではないのか?それが未来永劫続くもの…と思い込むことが間違いなのかもしれない。

 

そう考えると、誤解を恐れず言うならば、専業主婦という形態自体が「過去の贅沢状態の維持」なのかもしれない。誰もが稼いでねという「一億総活躍社会」などというのはまさにそういう意味もあるのだろう(あのスローガン自体にもろ手を挙げて賛成、というわけではないのだが)。

そもそも「こういう事態に陥った」事自体を論じたいところもあるのだが、今日のところはそれはおいておくとして。夫と妻の両方が稼ぐダブルインカム。そうすることによって、「すべての世帯収入」を一人に負わせるわけでなく、万が一どちらかが働けなくなった際に、まったく収入がゼロになるのではなくどちらか一方が保ち続けるという選択肢ができる。言わば大黒柱が「二本」。

 

これ、べつに結婚していなくてもよいと思うのだ。昨今、都会においては単身世帯が非常に増えつつある。単身世帯においてさえ、「収入減を複数化する」ことは重要ではないのか。働き手は一人だが、収入源が複数。

たとえばそれが昔なら、土地持ちが家賃収入をあてにする、なんて手法や、兼業農家という形しかなかったかもしれない。が、いまやインターネットの時代。ブログやアフィリエイト、他にも昨今勢いのあるメルカリなども一つなのかもしれない(そうでないかもしれない。それは時間が結論を出してくれるだろうが)。株やFXもそうかもしれない。まさに、そうした「自分の、この会社での労働一本」ではない、何か、微々たるものでも、別筋を持っておくことができれば、万が一に備えることができるはず。

 

収入元を複数確保する。依存どころを単一にしない事。たぶんこれがこれからの時代の生き方の一つなのかもしれない。

 

…と認識した瞬間に、「労働をしてお金を稼ぐ」以外の「お金」にまつわる学習機会、意識付けがどこかで教育として整えられることこそが、この国の方向性を変えることにつながる気がしているんですけどね。

でもあまり、教育における「お金の学びの機会」って、聞いたことない気がするんですけど。

親?過去の教育で作られていることがほとんどの「親」に、そもそもお金教育を意識していなかったモノに教育の変化を期待する事自体が、スピード感にかけるんですけど。