みんなと同じで の真実
海外のお国柄を表すジョークとして、各国の客人が乗っている豪華客船が沈むシチュエーションがある。子供や女性を助けるためには男性は海に飛び込んでもらう必要が出てくるとき、さて、どの国の人にどうサジェストするか?
イギリス人に向けては、「今飛び込むことこそ、紳士です」
アメリカ人に向けては、「今飛び込めば、英雄になれます」
フランス人に向けては、「今飛び込めば、モテますよ」
ドイツ人に向けては、「今飛び込むことが、規則になっています」
さて、日本人は…
それは、「他の皆さんも飛び込んでいます」
と。
あくまでジョーク。だが、皆がやっているなら私も、という状況、お国柄を的確に言い表しているかもしれない。
こうした、周りの行動になびくということ。これはたぶん、「あまりその事について深く考えず、きっとそうやって行動した誰かが考え抜いてそれがいいと出たのだろう」、ということに、暗黙で同調し賛同しているだけの事。結果として、自分で深くそれを考えていない、という事ではないだろうか。
誰かがやっていて、自分はよくわからないけれど、じゃぁ一応…となびく事は、そういう事。
なんとなく、同じ人がいることによる「安心感」はあるかもしれないが、だからと言って「安全」であることは何ら保証されていない。いわゆる、安心、安全問題とも非常に似通った構造がここにはある。
こんなに多くの人がこの行動をしているならば…で判断したくなる。これは、責任を「自分が負いたくない」し、間違ったとしても誰かに文句を言って何とかさせようという気も、と捉えられても仕方がない。
もちろん、正しく判断した結果として、皆と同じになることもある。が、なんとなくそちらに進んでいるうちのかなりの割合が、たぶん、「あまり自分での責任を負うつもりもなく、そちらに流されている」という状況ではないか。
みんなと同じで「安心」なのは、考えている人が誰かいる「はず」だから。でも結構な確率で、それは思い込みに過ぎないことさえある。考えて判断して人が、「正しくない」判断をしていたり、さほど知識がないということすら盲目に従っていく覚悟をもってのことか?
ただ逆にこういう言い方をすることで、こうも言われる。
「そんないつもいつも自分で考えなくちゃならないなんて、大変だし、疲れちゃう」と。でもたぶんそれこそが生きるという事じゃないかな。覚悟して、考え抜いて、自分で決断して進んでいく。
とくに言葉の通じない外国旅行などに一人旅で向かえば、いやでもこの状況に放り込まれることになる。誰にも責任を押し付けることができない。自分の知恵と判断が、自分を守る唯一の力。でも国内にいたり、毎日の生活を送っていたりすると、そうしたところで楽をしたりしたくなる。
それでも、責任は降ってくる。生きるって覚悟と絶え間ない判断、それに伴った結果、そして次の判断…なんだと思うんだけどね。
それは成功者の集まりか
同窓会というモノがある。早ければ卒業して数年後に開催されるものもあるだろうし、卒業10年15年を期して、有志が集まるというのもあるだろう。
大学の同窓会…というよりも、サークル仲間の集まりなどの感が強いかもしれない。
高校あたりも、まだ大丈夫だろう。仲間が集まるというのはあり得る。
中学…。このあたりになってくると怪しくなる。昨今の関東のように、中学受験をかなりの確率で通り、フィルタリングされた中学出身であれば、それも成り立つのかもしれない。
小学校。かなり絶望的な気がしている。私学であればまだしも、公立小学校時代の同窓会というのはどういう形になるのか?そもそも、年齢によるが、今同窓会をしようとなると、集めるのに使うツールとして、LINEやfacebookが当たり前のように浮かびそうだ。…が、大学、高校あたりまででそうしたツールを使えていた集団ならまだしも、そうしたバックグラウンドがない年齢層では、そもそもそのツールにつながっていないというのが最初で、かつ最大の大きなハードルになりえる。
さらに言うと、そうしたLINEやfacebookにアカウントを持っているそうした中年以上の年代層とは?という話だ。LINEはともかく、特に中年におけるfacebookの使われ方が、「どやの広場」ではないけれど、いまこんな素敵なところにいます。こんなおいしいもの食べてます…の発表会になりつつあるという一部の現実がある。いわゆる、「大成功」ではないけれど、それなりに日々の生活を送れている、若干の余裕が醸せる「成功者」の発表ツールになっている側面。であるがゆえに、そこを通じて集められるのは、結果的に「小さくとも今、成功/安定しているもの」の集まりにならざるを得ない。
その同窓会が近々開かれようとしている。大学を出た瞬間には、一部上場大企業に入っていた知人もいたのだが、昨今のニュースになるような凋落を経験しているであろう人など、連絡が取れなくなっている人も少なくない。そもそも連絡先などがつかめていても、返事すら来ない。それほど成功とまでいかない「安定」さえむつかしい昨今。生きるって難しい。
…であるからこその、成功、失敗の関係なしに、利害関係なしに昔のよしみで集まれる集まりに出る意味があると思うのだけれど。そこにはプライドと言うこれまた大きな壁も立ちはだかるのだろう。
人生、山あり谷あり。
真実を諦めたら
どうも印象として、最近のメディア、とくにテレビというメディアの「おもねり感」がひどいようだ。ニュース番組もあるのだけれど、あるニュースは流れないとか、軽く流して時間をかけないとかとか。
逆に、エンターテインメント、お笑いやちょっとした日常情報に特化するだけで、「お得感」は得られるかもしれないけれど、権力には逆らわず、実質的になびいてしまっているように感じられる人も少なくなさそうだ。
とは言え、メディアや、そのメディアが担うべき役割の一つとしてのジャーナリズムの責務の一つが、権力の監視だったりすることを考えると、そもそも役割を十分に果たしていない局、偏った仕事をしている局はいくつもありそうだ。
これは両方の側面がありそうだが、こうなってしまったのも、結果として、「ネット」という配信機構が徐々に構築されてきたことにより、いわゆるそれまでのテレビ、ラジオメディアでは、今はできそうにないものが流せるようになって、それまでのメディアは自主規制で自らの首を絞め、新しいメディアがある種のアングラ的ポジションから這い上がろうとしている、まさに過渡期なのかもしれない。
となると、なにか後ろ髪を引かれるかのように、権力におもねるよりも、もう「スッパリ」とエンタメや、日常に割り切ったジャーナリズムを捨てたメディアになるというのも、「道」ではあると思う。果たしてそれで今後ずっと生き続けられるのかは知らないけれど。
いわゆる真実、ニュースは諦める。まさにポストトゥルースの時代にふさわしい「メディア」の在り方だろう(これ、皮肉だからね)。
逆に真実を求めようとするとコストがかかる。昨今の有象無象が、根拠もなく作り上げたうわさ話やネタ話をきれいにふるいにかけて、真実だけにして伝えるのは、今まで以上に大変で、むつかしくなりつつある。
となれば、需要と供給が満たされるところで、それだけの大変なコストを払ってでも、裏の取れた真実が欲しい人向けに、ニュースは提供されるようになる日も近いかもしれない。「質の良い情報」は「価値ある情報」でもあり、それこそ、「対価を払っても欲しい」という人が出てきても不思議ではない。需要と供給のバランスさえ取れれば成立するサービスだろう。
すでに、ニュース、真実のコストはそうとう増している。ネット時代で、昔なら手にする事すら難しかった情報が多数出てきているメリットと、真の情報と雑音を切り分けるコストとをどこまで負担するのか。誰がそれでも納得するのか。
「いいじゃん、安い方が」とか、
「いや、今のままでいいよ」とか、
悪いことに対する歯止めをかけなくても、今より悪くはならないよ…と楽観的に構えていていいのか。たぶん、個々の人々の意識と備えこそが安きに流れ始めたところを契機に、たぶん10年後、30年後、50年後のこの国の道がきまりそうな、そんな悪い予感がしている。
我々の次世代に何を残すのか、我々だけが良くて、後にはゴミばかり、ひどい環境ばかりを残していても、「僕らはよかったからそれでいい」のか。たぶん、誰でもない、僕らは未来の(もし国が存続しているなら)日本人に、文句を言われるのか、尊敬されるのか、ここ3年で大きな岐路として決断をしているような気がしている。
意識の深いところで
先日驚いたのは、某有名女性誌の特集が「共感力」だったこと。ネットの力、インスタグラムの対等はここまで来たのかとちょっとびっくり。
これを見て気になっていたことを再度考えてみた。
別に海外津々浦々まで明るいわけではないけれど、特に日本では「共感力」が重視され、話の中でも、共感してもらえたり、「そうだよねー」とか「そうそう、わかる!」と言ってもらうことに注力している場面はいくらも遭遇する。
であるがゆえに、「共感」こそが、仲間になるための必須ツールとなっている節があり、転じて「共感できないようなやつは、仲間ではない」ような空気はないだろうか?
海外の知人などを見ていても、確かに共感は大きな力になり、人と人とを近づける強い引力になりえる。
ただ、海外の知人の場合、たとえ「君は好きかもしれないけれど、僕は嫌いだな、それ」となったところで、共感を得られない場合においても、知人となりえる確率が高い気がしている。もちろん全面的に違いがあれば友人にはなりにくいであろうけれど、「そこは共感できないけれど、別のところでは理解できる」といった場合、ちょっとした共感の有無と友人関係とは関係ない、切り離されている気がしている。
ところが日本では、すべてに共感できないと、大半以上で共感できる間柄でなければ、そもそも友人関係が成り立たなかったりしないだろうか?もちろん、そうでない人もいるのだろうけれど、比率として、「共感」を重視する人が、海外に比して高い気がしている。
であるが故の、「いいね」に対する「いいね返し」だとか、共感に対するアンサーとしての共感が半ば強制的な「空気」を生み出す。それこそが、「私と違うあなたなら、受け入れない」という事であるにもかかわらず、共感を返してこないことに腹を立てる人がいる。
世界に一つだけの花…をはじめ、みんな違って当たり前…などが「美しく」もてはやされ「言語化」されているところは確かにある。けれど、逆に言えば、これが「わざわざ」もてはやされている状況こそが、心の奥底では実は、「…でもやっぱり同じである方がなじみやすいよね」という裏返しなのではないだろうか?
で、自分はどうかと考えてみる。全然表面的に共感できないところもあるけれど、一点でも認められる世界に身を置けるのか、と。
RPGの世界
すでにドラゴンクエストが日本で遊ばれてから30年以上。それ以前にはほとんど認知されていなかったRPGという世界が、いまでは当たり前のように語られる世界になった。
わざわざ言うまでもないけれど、こうしたRPGはドラゴンクエストに限らず、最初は簡単な装備、簡単な武器を手に、雑魚を倒しながら強くなる。強くなることでお金を稼ぎ、経験値を稼ぎ、それで装備をアップグレードし、武器をアップグレードしていく。
最初のころは、武器もたいした痛手を与えられないちゃちな物だが、モンスターも雑魚がほとんど。だから、何とかやっつけられる。だが経験値を積んで来ると、そんな雑魚だけを相手にしていては成長できなくなってくる。そう、成長のためには、経験値が加速度的に増加する仕組みになっている。だから雑魚だけを相手にしているわけにはいかず、より強い相手、より強い装備に付け替えながら、意味成長しながらゲームを進めていく。ある意味当たり前のシステム。
このドラゴンクエストが、事実上「バブル期」に市場に産み落とされ人気になったというのも興味深い。劇的な現実世界のインフレと、ゲーム世界のインフレとが自然に理解されたのかもしれない。
今でもRPGはドラゴンクエスト以外にも存在している。遊ばれている。基本は成長インフレシステム。
それとは対照的に、ここ20年ほど現実の日本経済においては、インフレすら起きず、むしろデフレ傾向に陥っていた。ドラゴンクエスト的に言うなら、「わざわざ戦いに出ずとも、手持ちの武器の戦闘力が相対的に上がる」事でもあり、「身近なスライムを倒し続けているだけでなりたつ」ゲームになるという事。
そんなゲームがもしも実在したとして、さてやって見て楽しのか?黙っていても成長するゲームは面白いのか?世界がインフレしないゲームって何?ってことだろう。
しかし、インフレしない「現実」がここ20年続いた。ゲームで言うと、売れないゲームが20年続いたことになる。物価が上がらないのをいいことに、給料も上がらない。
その為、周りがインフレ化しないなら、「自分側」がコストを下げる、効率を上げることで、相対的に「インフレ化させよう」としている現在があるけど…?でもそれも限界。無限に効率など上がるわけはない。
たぶんこれまでは、(そして多分これからもその価値のほとんどは)お金を基準に判断されてきた。けれどすでにインフレが望めないとするなら、お金基準以外での楽しさ、嬉しさ、喜びを探して共通基準として行く以外にないのではないだろうか?
それは今日言って明日答えが出るとは思わない。もしかしたらこれから30年から50年ぐらい混沌の時代が続くのかもしれない。それは新しい基準、お金以外の共通の物差しを求めて、世界が悩み、混乱する時代になるのかもしれない。勇者の戦いは続く。
しかしこうも思う。それを探している時間は、確かに混乱も呼ぶだろうけれど、世界として、社会として、実は後から振り返ると楽しい時代なのかもしれないと。新しいことを探す、新しいことに挑む。何のリスクもなく、ずっとずっと安全に生きていけるという「安心な世界」もあるだろうけれど、そうではない「少しリスクのある、少し刺激のある世界」という中で、新しい基準を探して装備を整えて森へ海へ繰り出す。まさにRPGの世界のように。