議論できるようになる

誰かの講演会を聞きに行ったりすることはあるだろうか?昨今は、そうした講演会すらネットを通じてみることができる。都会ならば、そうした催しも近場にいくらもあるけれど、地方ならばそうそうお目にかかれない。でも、結局意識が高い人は、それなりに時間を割いたり、努力をしたり、場合によってはお金と時間を使ってさえも、そうした「意見を得る」「生の声を聞く」ために動く。

自分一人の視点では、どこかに限界を感じたり、打破できない壁があったりする。それを、誰かの経験や視点で越えること。自分以外の違う意見を聞けるという事の大きさを、意識してなのか、もしくは意識せずなのかは知らないけれど、理解し実践している人々。

 

そういう活動をしている人は、議論ができる人が少なくないように感じている。それは「そもそも他人は自分とは違う」という当たり前を当たり前ととらえ、何が違うのかを聞く、受け入れる力を持っているからだろう。

と同時に、そうして他人の意見を聞くことにより、たとえ「自分では受け入れられないかもしれない違う意見」を聞いたとしても、そこを起点に「自分の意見のポジション」を確認し、「違い」を確認し、受け入れることができる力。

「違う」イコール「排除」であったり、「違う」イコール「間違い」ではないところこそが重要なところ。当たり前のようで、結構難しいこと。

 

意見が違うのは当然の事。それを踏まえられるか否か。

自分はそのつもりでも、不協和音を引き起こしそうで、なかなか違う意見を言い出せなかったり、誰かの違う意見を受け入れられなかったり。そこには立場やポジション、役職なども微妙に絡み合う、関係性や権力とはなかなか切り離せないものがある。

だがそれでも、議論するにはそうした考えが前提である必要が。でなければ、立場の強いものの意見がいつも正しいことになりかねない。そして少し間違え始めると、立場が上のモノが、下の意見が違う事を不満に思って、力で通し始めた瞬間に、世間にはゆがみが生じ、別の不満が生み出され始める。

 

正しく議論ができる事、そうした関係、間柄、意識してそれができる人々が多数いるほどありがたい環境は無い。だがそれは、一人で作るというより、そうした人々の集まりとして作り上げていかなくてはたぶん成り立たない。誰かに作ってもらうのではなく、自分もそれを作る側に回るという意識ある人たちがあつまってはじめてできる事。

 

 

決めているのは誰か

先日、いろんな縁がつながって、同窓会を行った。

当時としては、英語ができないやつ、成績が悪い奴、めちゃくちゃできたやつ、一流大学に進学して一流企業と言われる企業に入った奴などなど、当然いろんなやつがいたけれど、それなりにいろいろと悲喜こもごも。

 

結果として高校や専門学校しか出ていなくても、きちんと働けている奴はいるし、一流大学をでて一流企業に勤められていても、その後にリストラに合って苦難の道を歩んでいる奴もいる。当時英語が得意で、当人はそうした道に進みたいと思っていた人でも、いまは全然その能力を使えていない者もいれば、当時は英語なんて嫌いだったに違いない奴が、今は英語を使って仕事をしていたりする。

 

もちろん、目標に向けて着実に近づいていき、それをものにする奴もいる。でもみんながみんなそうではないし、目標を目指したところで「必ず」到達できるわけではない。
そんな時にどうするのか、どう判断するのか?

 

物理的「道」ならば、その岐路に立たされた瞬間に、どれかの道を選ばねばならない事は自明だ。けれど人生における「道」は、結構意識していなければわからない。その時に「あちら」ではなく「そちら」を選んだばっかりに「こうなってしまった人」もいれば、「あちら」を選んだ末に、その時には相当苦労はしたんだろうけれど、今になって花開いている人もいる。

 

何が幸せか?なんて人から押し付けられるものではない。どこで苦労するか?も人それぞれ。当たり前ながら、「それ」が当人にとっては苦労であることもあるし、同じ内容でも別の人にとっては何でもないことだってある。

だから、決めているのはどこかで「右」ではなく「左」を選んだ自分自身。目の前の事だけを選んだからと言って必ず失敗するわけではない。でも少し先を見据えて選択しつづけても、必ず成功するとも限らない。常に自分の道を修正し続ける、自分でコントロールする意思を持ち、自分の位置を確認する癖をつけること。

 

お金でさえ、あればあったで苦労するらしい。無ければ無いで何とかなるという人もいる。悲観するのも、楽観するのも自分。誰かと比べているのも自分。幸せを決めているのも自分。不幸だと悲観しているのも自分。

だから、自分に問いかけてみる。おまえ、最近がんばってるか?って。

そいつがちょっとはにかんで笑っていたら、良いんじゃないの?

自分自身が信じられなくなるのが、やっぱり一番キツイよね。

ゴールの向こうを

オリンピックなどで陸上競技がもてはやされたり、世界陸上などで素晴らしい世界の記録に触れることがある。
たとえば短距離の選手、100m走でいい、これを走る時に、「100m先のゴールに到着する」という目標を立てると、じつはなかなか成果は出しにくい。そうではなく「100mまで思い切り走りきって、それを超えたところからスピードを落とす」と考えて初めて、100m走の記録が出せる。でなければ(とくに素人はどうしても)100mのゴールの前から速度を落としがちになる。だからこそ、走りきって、ゴールを超えたところから、徐々にスピードを落とす。100mきっちりのところで止まれる選手には、記録は出ない。走りきれるかどうか、という競技は、また別の話だ。

 

だから、目標値自身を最終ゴールに決めてしまうと、実は目標値はさほど良い形でクリアーできない事がある。目標値の向こう、ゴールの向こうに向かって走っていかねばならない。たぶんそれが「目的」として描かれるべきものであり、そして100mの時点での時間が「目標」だろう。

 

さらに言えば「目標値」と言う言葉はあれど「目的値」はまず聞かない(目的「地」ではない)。目的を達成するための指標が目標値。であるからこそ具体的な数字、誰が見てもわかる結果にする必要がある。

 

この目的、より多数に賛同を得られることの方が事を進めやすい。であるからこそ、県極夜力が必要になったりすることもある。力がないわりに大きな目的を提示しても、「で、お前はどうやって実現するのさ?」と夢物語で終わってしまう。だからこそ動かせる力を通じて、それに向かって実際に動くことができる事、それにより結果である目標値を実現化できることこそが必要になる。

 

このより大きな目的がなくなると、人はモチベーションを切らしてしまう事がある。より大きな目的、今まで成し遂げたことの次の目的が見えなくなると、人はパワーを失いがちだ。それこそが夢であり、次に行き着きたい探求心だったりする。

夢、今はできていないけれどやりたいこと、好奇心、探求心。その年でそんな事を…と言われることを恐れていたりすることもあるかもしれないけれど、こうした考え方自体は何も恥ずべきことではない。

ただ最近は、そういう事を思い描く力や時間さえ、企業のための営利目的活動に使われている事こそが問題なんじゃないかな。それさえ奪われていて、その他の時間は回復するための時間ですべてが使われるとするなら、人は何のために生きているんだろう。

内部留保は誰のためのもの?

 

 

求められているのは

特に昨今増えてきた…とは思わないけれど、老人やお年寄りがきっかけとなるトラブルが増えているような気がしている。

 

誰しも、いずれ年を取り、退職したり、仕事を止めたりして老年世代に入るわけだけれど、(たぶん昨今の経済事情も相まって)そうした形で隠居したくとも楽隠居できなかった?老人起因のトラブルがネタになることが多くなっているのかな。

実際に、自分が使っている通勤電車の中を見回してみても、ご年配だろうと思われる人の割合が増えている気がしている。

相対的には、昔の60代よりも今の60代の方が若いようには感じるものの、その年になってまで…と思われる人が働いていることもよく見る。ある意味、貧富の格差が健在化しだしている現状と言うのもあるのかもしれない。

 

もちろん、とは言え多くのご年配の方、お年寄りの方のほとんどは、トラブルも起こさず、社会のルールの中で活動、生活をしている方ばかり。ただ逆に言えばそうしたトラブルで目立つ人、メディアネタにはならないけれど電車の中で目立つ人などと言う人々が存在するのも明らかな事実。

 

ただ、昔は全くいなかったのか?というと、たぶんそんなことはない。昔からそういうたぐいの人はいらっしゃったのだろう。昨今、そのお年寄りという母集団としての数が明らかに増えたことで、結果的にそういう人の絶対数が増えた側面はある気がしている。

 

昨今の国に政策においても、年配の方々への配分に力を入れて考えられている…にもかかわらず、いつの時代においても、「年金が心配だ」とか「年金だけでは生きていけない」といった心配事が後を絶たない状況が続いている。なかでも、そうした計画や、蓄えが本当に少なく、年を取った後でも働き続けなければ生きていけない人々にとっては、老体に鞭を打ち、不満は募り、テクノロジーについていけない状態をして馬鹿にされているかのような感覚をもって不満を爆発させることも想像に難くない。

 

とこう考えると、やはり、いくつになっても学ばなければ生きていけない時代なのだろう。

それは、たとえ少年であろうと、青年であろうと、壮年であろうと、老年であろうと、その年に応じた学び、それはテクノロジーのみならず、社会の仕組みや、金融の仕組み、お金の計画、人生の計画等々、さまざまな事を学び、先手を打って自分の未来を切り開いていく必要があるはずだ。

そうしなかった人々、そう努力しなかった、学べなかった人々が、結果的に不満を募らせていないか?俺は頭が悪いからわかんねーよと開き直っていないか。

 

結局、年を取ろうと取るまいと、アタマの良しあしよりも先に、素直に、学ぶ姿勢を持ち、我儘ではなく謙虚にふるまえることが必要なのではないか?

ただ、もうすでにそうなっているお年寄りに「今から」変わりなさいといっても、ほとんどが無理筋のお願いになるのだろう。だからせめて今から年を取る我々こそが、そうやって学ばなければ、賢い老人にならなければ。それこそ若者と、年寄に二分された、権利対立により、この国は分断しかねないのではないだろうかと心配してみたりする。

無限に発展する前提は、皆が学び、進化し続ける前提があるから。不満をいかにポジティブなエネルギーに昇華できるか、かな。

 

それは自由を捨てていないか

ルールで、法で決められる。それによって良くなる、強制力がある、というのは一つの考え方であり解決策だ。

だがどんな組織でも、グループでも起こりうることだけれど、そうして一つ一つを明文化したルール化することにより、ドンドン窮屈になって行かないか?

「それが窮屈なら、より細分化して、条件を明確にしたルールにすればいい」と言う人もいなくはない。もちろん「理論的には」それで対応可能だけれど、本当にそれでうまく行くと思っているのだろうか?事実上、条件は「無限」に出てくる。それを逐一ルール化し、そしてそれらをみんなが覚え、一つの間違いもなく運用する…なんて世界で、活動できるだろうか?

 

…となると、ルール化、明文化は、ある程度の前提条件をもって設定されることになる。でも、それにより、細かく分けられれば自分はその反中には入らないはずなのに、その粒度でルール化されたばっかりに、「絶対にしなければいけない、やらなければ罰せられる」こと、になったら?

それはある意味、やらなくてもいい自由を捨てさせられたことになっていないか。

そう、やらなくてもいい自由って、実はとても大きく無いだろうか?

 

憲法にせよ法律にせよ、義務として、逃げられなくなるように、やらなければいけないことを「国」が押し付けてくる項目が増えつつあること…が、昨今の気持ち悪さ。

幸い?なことに、今の政権の人気に陰りが出てきたことで、あまりに強硬的手段には出られなくなりそうだけれど、それでも決められてしまった法もある。

結局、「国ありき」の上に国民が存在しているといった匂いがプンプンしていた。

でも、「人ありき」で国が存在するんでしょ?

人口が減りつつある昨今。日本人が0人の日本国…なんて、冗談にもなりゃしない。

 

自由は、持てなかったり、失ってみたりして初めて分かる痛み。そういう意味では「健康」と似ているかもしれない。だからこそ、健康なうちに健康維持に気を付けるように、自由なうちに、自由を守り続けないと。