幸せの作り方

別に大それたことを書くつもりもなく、自分の幸せな時間、空間をどう作るのか?という事を考えてみたい。

 

昨今は、パソコンもとりあえず一通りいきわたった時代。さらに言うと、パソコンはあったけれど使いこなせずに、タブレットスマホで十分という事が見えてきた時代。 

自分の親を見てみると、 さすがにそんな機器を、自分から選択、購入、学習して使いこなせるといった積極性はないものの、教えてあげれば使えるようになる程度。なのでいろいろとお膳立てをするわけだけれど、それでも「言われた範囲で使っている」のが関の山。

 

確かに、新しいサービス、今までにないことができる状況は、新しい情報を仕入れる事、新しいものを試してみる事をしていかなければできないのだけれど、そもそもそういうことをしない。…というか、もっと言えば、どうなれば自分たちの時間が楽しくなるか、より良くなるかという「自分のありたい姿」を描く力が弱い。

 

結構な数の人々が、「つまらない、何か面白いことはないか?」とブツブツ言う。こうした人の多くに、じゃぁこうしてみれば?とか、こんなことはどう?と水を向けてみたところで、結構な確率で、「それは××だから」とか「いやそんなたいへんな」などと、やらない理由を持ち出す人が少なくない。

たぶん、「やりたくない」のだ。自分から考える事すらしたくなくて、与えられるもの/事が、素晴らしい、刺激的、楽しい、面白い、ことになるような状況がないない…と不満を噴出している人が大多数…なのではないだろうか?

 

そりゃ70億人も人間がいれば、数人はそういう与えてもらえる身分の人もいるかもしれないだろう。が、ほぼ99.99%の人にとっては、それはムリな話。自分の楽しいこと、自分が幸せなことは、自分で探さないと、試さないと。

ここで次のレベルの問題にぶち当たる。人生は短い、だから失敗はしたくない。つまらないものに会うリスクは背負いたくない…という人もいる。

とは言え、小さくは試す人。リスクが怖くて何にも試さない人。ここはいろんなレベルがありそうだ。

 

ただ一つ言えるのは、自分の幸せは、自分からつかみ取りに行くしかない。それは誰かが分かってくれて提供してくれるものではまずないだろう。だから自分自身に語り掛け、自分自身がやりたい事を自分自身が理解するしかない。そう、自分を正しく知る、自分を丁寧に考える。

ただ、丁寧に考える方法、ってのは、本来は成人するまでにどこかで学んでもよさそうなものだけれど、たぶんそんな機会はあまり設定されていない。どちらかと言うと、「学び方を学ぶ」という教育よりも「学ばなければならない知識を詰め込む」という暗記学習が何十年も幅を利かせている。

 

だから、「考え方」を身に着けようよ。どんなものでも同じだけれど、最初はスピードは出ないかもしれないが、基本に忠実に丁寧に。それができるようになれば、いずれスピードをもって「丁寧に考える」ことができるようになるはず。

みんなが幸せになるために、なれるために、丁寧に考える方法を身に着ける必要があるんじゃないかな。

 

でも今、自分で考える時間すら奪われつつあるのかな…。

自分で考えられれば、見えてくる世界は、何百倍も違うだろうに。

 

忙しさにかまけていたこと

本当に久々にお会いした友人がいた。

日々顔を合わせていた時には、同じようなレベルで、他愛のない日常を送っていたのだけれど、いつしか連絡は途絶えていた。

それがとある機会で再開することになる。でも、そのお会いしていなかった間に生じたであろう差異は、実に大きく。

 

再会して気づいたことは、この間に、埋めがたい違いが生まれてしまっていると言うこと。容姿はもちろん、考え方、振る舞い、雰囲気すらもかなり当時の印象からかけ離れていたりする。生まれながらの遺伝形質もあるだろうけれど、後天的環境要因による影響でも避けがたいものがある。

 

社会状況、経済状況も激変したこの何年か。そんな中で生き延びてきている事だけでも、それはそれですごいことなのだけれど、人に依ってはその間にさまざまなドラマを経験した方もいるだろう。それを経た上での「今」それを超えてきた結果としての「今」。

 

たぶん、私が感じたのと大した差異なく、相手から見た「私」もそのように見えているのだろう。事実、この間において様々な経験を積み、いろいろと潜り抜け、超えてきたものがある現在。

 

そして思う。あぁ、やはり人のつながりと言うのは大切なものだと。忙しさにかまけて、誰かに連絡を取ることを怠ったり、つい連絡を取りづらくなったりしている自分を後悔する。もう少し前に機会が持てなかったのか。

昨今は、電子メールやLINEをはじめ、さまざまな手法で人との交流が活発な時代。であるがゆえに、どれにも達者な人は少なく、ついつい自分の使い慣れたツール、手法を使いたがる。一昔前なら、電話と手紙くらいしかなかったのに。

 

久しぶりに、また別の仲間にも会いたくなった。

残暑も過ぎ、食べ物がおいしい季節になる。ちょっと食事会でも計画したい。

 

贅沢へのあこがれ

皆さんは贅沢したいと思ったことがあるだろうか?どんなものでも、事象でも構わない。これをもっと欲しいとか、もっとやっていたいとか…。普通、あるよね。

 

しかし他方で、他の人から見れば贅沢でも、ある人にはもう当たり前にできている人もいるかもしれない。その人にとって見れば、その事自体は贅沢でも何でもないかもしれない。

そう考えれば、「贅沢したい」とは相対事象でしかなく、何かと比較して、それは例えば「今」や「過去」と比較したり、「誰か」と比較したりするということで初めて認識できるもの。要するに、今より良くなりたい、あいつより良くなりたい、あいつに追いつきたいという希望、欲望の結果、それが「今できていない事」として「贅沢」につながる道筋が出来上がる。

 

ただ、後先さえ考えなければ、刹那的贅沢ができる人はいる。それでもなぜそうした選択を取らない人が大半なのかと言えば、その後に続かないからだし、そこで得られる喜びが一時的で、場合によっては案外思ったよりも小さいかもしれないというリスクとして天秤にかけた結果だからかもしれない。よって結果的に、この場だけの贅沢というのは、日々の節約の反動でしか無い状況。

 

ではそんな刹那的ではなく、それがこれから続いていくためには?

たぶん、「誰かだけ」ではなく、周りを含めて、全体として、そういう事が実現できる環境、実現していく機運を醸成し、みんながそこに向かっていかなければ成しえない気がしている。一人の贅沢は一瞬であっても、全体で進化すれば、それはそう言う環境に。

 

それを考えながら、今、自分の周りを見回してみると、昨今の多くの状況で「もうこれでいい」という声が聞こえ始めている気がしている。それはたぶん、日々の日常をまわすことだけでも疲れ、これ以上「努力」して、何かがさらにうまく行く、満たされる?なら、疲労と比較して、このままでもいいのではないか?と諦めてしまっていないか?そんな人が増えていないだろうかという事。

 

逆説的になるかもしれないが、「頑張りすぎ」ている今だから、「効率化されすぎた」今だからこそ、これでいいと思っていないだろうか?少し余裕をもって、もう少しこうしたい、改善できるのにやってみたいな…と思う心を持つ余裕や、実際そのように現場として進む方向を目指すことはできないだろうか?
今は、「もっとやれるように、効率化するように」と、「やらされている」事だけでフルに回っていて、他の全てのやる気を失っている気がしている。まるで小学生のように「勉強しなさい!」→「今からしようと思ってたのにぃ、やるきなくしたぁ」に近い状況ではないだろうか?

 

贅沢にあこがれるだけの、欲望が出てくるだけの余剰を与えなければ、本質的景気回復など見込めないように、少なくとも私の周りでは見えるのだけれど。

 

それはどこから生まれてくるのか

アベノミクスのメッキがはがれかけているらしい。三本の矢などと語ってきたのはいいけれど、どうやら第二、第三の矢は実質的には放たれていないに等しいのではないか?といった意見さえ目立つ。財政健全化という視点もあるものの、当然のごとく景気が回復すれば、良い方向に回りだすはず。なので景気を回復させなくては、そのためには「今は」多少ばらまき気味かもしれないが経済を刺激せねば…といった論調が続く。

 

他方、企業はと言うと、こちらは明確に「内部留保」を大幅に積み増ししてきている。将来何が起きるかわからない。そもそも日本における労働者人口が減少し始めるのは目に見えている。それらにそなえて企業が倒れてしまえば、そもそも労働者建て雇えないわけだし。だから「企業」が保身に走る。結果として「内部留保」が積み増され、企業としては、万一の事態に備えようとする。そのうちの数%でも雇用者、ひいては消費者に還元されていれば、どれだけ景気は潤うのか…と思うのだが。

 

実質はそうではなく、雇用者の仕事効率を上げようと絞り上げる。無駄時間を削減し、残業を減らし、しかし今まで以上の売り上げ、成果を求めてくる。当然ながら、いままでは「少し」余裕のあった仕事現場、作業現場からも、それらが削られることにより、結果として「余裕」が削られる。となると、ちょっと遅れていたり、ちょっと手間取っていたりすると、ひどい場合は怒声が飛ぶ。

「何遅れてんだ!」

「何やってんだ!」

「そんな遅れる、手間取る時間なんてねぇんだぞ!!」

 

日中、仕事時間中がこうなのだから、仕事が終わったとしても、いきなりモードは変わらない。だから通勤中、道端、電車の中、雑踏の中においても「余裕」がなくなる。

ちょっとした遅さ、手間の時間が気になる。もう少し早くできないのか、急いでくれ、早くしろよ!

 

だがそんな、個々が急ごうとする結果、全体として無駄が生まれ、全体としての効率が下がる事がある。ある意味、今削っている結構多くの「余裕」や「無駄取り」が、結果として意味をなさない苛立ちを生んでいないだろうか?

 

余裕あるところには配慮が生まれ、気配りができるようになる。互いに助け合い、保管することができる。少し余裕ができれば、視点にも余裕ができ、結果として「全体最適」が見えてくるようになる。

 

こう考えると、ちょっと極論かもしれないが、「景気」は「余裕」から生まれていないだろうか?苛立ちは「摩擦係数」をあげるばかりで、スムースに物事を進める事には何ら寄与しない。

そんなことを考えてみた9月。

 

訓練の意義

9月、防災訓練があちこちで行われることがニュースになる。

学校で、会社で、自治体で、それまでに入念に準備した避難行動訓練を、それぞれが行う。

「今日は〇〇訓練です。」

 

一部の本格的な訓練はともかく、多くの学校で、会社で、みんなが行ったことのある訓練とは、ちょっとした広場にとりあえず非常階段を通じて出て、10分ほどの講話を聴いて終了…てなものが多いのではないか。

さらに、こうした「訓練」自体の評価が、「混乱なく終えられたこと」などということになっていたりしないか。

 

日々の業務、授業の観点から言うと、それら日常を乱さずに、最短時間で終わる事こそに意味があると考えるのは、ある意味正しいのかもしれない。けれど「訓練」という立場で考えて、本当に「混乱」が起きなかったことは正しいことなんだろうか?シミュレーションになっているのだろうか?とつくづく考える。

 

シミュレーションや訓練の意味は、当然ながら何等か想定外の事が起きたことにどう対処できるか?こそが勝負の側面がある。それを、効率よく外に出ました、講話を聴きましたで終えてよいのか?

 

「おざなりの訓練」こそ、オオカミ少年効果ともいうべき、あぁ、またこの程度なのねといった慢心を生みはしないのか?そして結果として本当にそれが生じた際に、これは?あれは?といった混乱を生みはしないのか?

 

ただし、すべてにおいてそうだけれど、「完璧に準備しきる、すべての事態に対応できる」なとどいう環境、状況を作ることはムリでもあるし、当然お金も、時間もないだろう。となれば、いかに「突発性にたいして対処できうるか?」を訓練すべきであり、それは上記のような「明日、〇時ごろに、避難訓練があります」では到底対処できない事ではないだろうか?という事。

 

その行い、意味ありますか?何をしたいですか?何をできるようになっていたいですか?それは、その訓練の仕方で大丈夫でしょうか?