削られているモノ

効率化と言う形で、時間を有効に使えと指示が飛ぶ

 

結果、疲労困憊して、遊ぶ時間すら削って、休日その他は「身体を休めて、次の闘いの準備をする」のが精いっぱい。と言う形で、結果的に「消費」を削っているのではないのか?と言うのが一つ。

 

もう一つは、そうすることによって、日々の時間、個人の時間が結果的に削られ、家に帰ったら休むだけ。なので、趣味や、クリエイティビティに関する時間が削られて、要するに個人から「生み出す時間」が削られていないか。

 

企業活動による成果は、基本、儲けにつながる成果。だから、儲かる事、利潤がのっかっている事がとても重要。

でも、個人的に生み出すものは、いわゆる趣味として、こんな面白いこと、こんな楽しいことをやってます、できました、というのがその成果。だから儲けは基本考えない。あえて言えば、楽しさこそが儲けとも言える。であるからこそ、みんなが見てとても面白かったり、人気になったりして、爆発的に情報が広まり、結果として企業がその流れに乗って商売をすることもなくはない。

 

そんな個人活動が削られれば、もちろん「楽しい儲け」は減る。それにより、「企業活動として」楽しさを生み出せという事につながらざるを得ないわけで、「仕事によって、楽しさ、面白さ」を考えたりする。

もちろん、それを探せる仕事もあるかもしれないが、そこは矛盾して仕事をしている人がたくさんいて。そんなやり方で「効率よく」ヒットが探せるわけもなく。

 

企業が「確実」に利益を出そうとするために、「確実」にあたるモノを作ろうとし、それにより、「確実」なヒットを探す…なんてできっこない。

楽しさ、ヒット、あたりは、クリエイティブな場所や時間、行動から生まれ、それはある意味、効率とは対極にある行為。

 

それを意識できている企業もなくはないのだろうけれど、どうも全体として、「お金」や「利潤」だけを追い求めんが為に、「お金」にたどり着けず「利潤」にたどり着けていないという、矛盾を生み出しているのが現状なのかなぁと感じている。

 

ちょっと変わったことしませんか?ちょっと楽しいことしませんか?

 

 

「考え方」を知っていますか

〇〇ってなーんだ…といったクイズに対して、その「答え」を「考える」のは、遊びを通して訓練してきたこと。

でもより重要なのは、もっと一般的で、唯一の答えがないようなものに対して、「考えなさい」と言われた際に、何を探すのか?それをどうやって「考えるのか」は、案外と訓練がなされていない。

 

お子さんがいらっしゃる家庭、いらっしゃった家庭、親戚、友人の子供に向かって、こう言った経験はないだろうか?「しっかり考えてみな?」

でもたぶん、子供はけげんな顔をする。考えてるよ。でもわからない、「どう考えればいいの?」と問い返したり。たぶん、みなさん自身も小さな頃に、一度や二度は言われた事が。「ちゃんと考えなさい」。でも、その「方法」は教えてもらった覚えがない。

そうなると今度は大人が狼狽する。「か、考えるって…、考えるんだよ。ちゃんと考えるの」なんてね。

要は大人だって、「考える」を考えたことがある人はそう多くないってことだろう。言葉だけを子供に押し付けたところで、自分自身「考え方が分かっていない」「なんとなくやっていること」をそう思っている、語っているだけの人は少なくない。

 

でも昨今、個人の力が発揮しやすくなり、個人での情報発信がしやすくなるにつけて、個人でしっかり考えている人の発信と、そうでない人の発信が、エッジとして際立つようになってきている気がする。しっかり考えられているそれはまだしも、しっかり考えられていない発信が、ときには「バカ発見機」として利用されているシーンすら散見する。

 

これだけツールが、コミュニケーション環境が発展した今、僕らはたぶんこれから、今まで以上に、「考える事」を学ぶ必要がある。この国は今までのように、考えずとも人口が増え、数の力が生み出した「波」には乗っていられない時代になりつつある。だからこそ考える必要があり、そのためには、正しい考え方、丁寧な考え方を身に着ける必要がある。

でもまだ、そういうことを教えてくれる人が少ないのかもしれない。

一緒に学びませんか、丁寧に考えるってどうすることなのか。

 

 

 

 

選択肢

先日ここに書いた選択肢の多さの話だが。じゃぁ選択肢の数が多ければいいのか?というと、そうでもない。

そもそも数があったとしても、選択されうるにふさわしい選択肢かどうか、品質が吟味されていることが重要事項。選択肢の頭数さえ増えていればいいんですよ、とはわけが違うのは言うまでもない。

 

だが、品質も粒選りで、選び抜かれた選択肢が数多くあったとしたら?まぁまずそんな贅沢な状況を喜ぶべきではないかとも思うけれど、選ぶ方からするとこれはこれで難しい。が、すでにその状況は今皆さんの目の前に起きている。

 

ご近所のスーパーに行ってみるといい。飲料水でも、調味料でも、一つのジャンルに多数の競合会社が似たような商品を、似たような、でもちょっと違うパッケージで出して競い合っている。

これを検証した学者がいる。

「ジャム」の選択肢が何十とある場合と、数種類に絞った場合の、どちらが売り上げが立つのか?結果としては、後者、数種類の方が買いての手が伸びやすいという結果になったという。

 

選択肢は多すぎても困る。そもそも違いが微妙すぎて、選びきることができなくなる。そこまで全ての差異における明確な意識的違いを、多くの人は持ち合わせていない。

だが選択肢が少なすぎるのも困る。それはそれで、究極の選択にならざるを得ない状況になるからだ。適切な違いによる、少なすぎない選択肢。

 

やっぱり世間は右にも、左にも、前にも、後ろにも偏りすぎない、バランスの上に成り立たざるを得ないのですよね。

 

それはマネジメントが悪い

できないものを「できません」という。それは当人の責任。

これをあいまいにして、なんとなく苦笑いやあいまいな言葉で済ませていると、それを受け取る方は「なんだ、否定しないのか、ならできる」と都合よく判断する事がほとんど。

だが逆に、「できません」と明示すると、でも、それでもそれを「何とかしろ」と押し戻し、当人責務に押し付けるだけで対策を立てたようなつもりになっているのは、その時点でそのマネジャー、リーダーは、マネジメントの責務を放棄していないか?

 

確かに、できないといったやつの効率が悪いところもあるだろう、努力していないところもあるだろう。

だから「そこ」を指摘し、改善させるように仕向けさせるのがマネジメントだし、それでも変わらなければ、その当人には「それなりに評価する」という権限を持つのもマネジメントだ。

 

こんな場合はどうだろうか?

「できるか?」と聞かれて、明確にできませんとは答えなかった担当者。

しかし当人自身は内心、ちょっと無理だなとうすうす感づいており、やってみた結果やはりだめだったと「結果が出た時点」で知らされた。しかし当然ながら、もうそこまでに使った時間は帰ってこない。できないと言ったものと、言わなかったものと、どちらがいいのか?

 

「できない」と言わなかったら、結果当人をしかりつけ、

でも「できません」と言ったら、当人に押し付ける。

 

これはどちらもマネジメントしていないだろう?

なんでこんな奴らが堂々と「管理職」を名乗っていたり、高給を取っているのかが不思議で仕方がない。

心の底から憤りを感じる。でもこんな現場があちこちに。

こんな状況が、これからも未来永劫続く?それがいい職場環境なの?

 

どこかの歌の歌詞にあったな、弱いものがさらに弱いものをたたく。現場は結局そんな状態になっているってことか。今(に限らず?)仕事現場は相当病んでいるんだなぁ。

あなたの言葉

政治家の動きが激しくなりつつある昨今。選挙が近いと辻立ちも増えるようで、いつもの道端で、スピーカーで政治を語る者が出てくる。

 

昨今は、別に政治家を志望する者でなくとも、自分の意見を世間に表明することはとても簡単になった。ツイッターやBlogを開設すれば、意見や写真などなど、さまざまな事を世間に表明できる。それが本当に世間において価値を持つことだと世間が気づけば、それをまたさらに広めるリツイートなどの仕組みも用意されている。

 

だが、そうして表明できるのは、音にせよ映像にせよ、文章にせよ、基本は「言葉」だ。日本人であればその多くは日本語が主体。

これを適切に操れるかどうか?そもそも、皆に響く言葉を選べるかどうか。

学生レベルでは、ちょっとした文章を読み取る力が落ち始めているような記事も見かけたりするが、であればこそ、文章を「書く」力は、さらにそうそう高くはないことは想像に難くない。

 

誰かが使っている言葉を「借りる」事はたやすい。が、それはその使っている人の「道具」として使われているものであり、借りてきた言葉(道具)は使い慣れない分、切れ味が鈍ったり、逆によく切れすぎたり。要するに「自分の道具」としてうまく使えない事が少なくない。

 

それは「自分の言葉」になっているのか。

「誰かの言葉」を借りてきているだけになっていないか。

 

 

そして自分への自戒を込めて。

そのためにも結局、原点回帰で、本を読む、なのかなぁ。