そして2018

さすがに先週は有休を入れていた人も、今週からは仕事が始まるだろう。よほど特殊な業界でもない限り、少なくとも今週から、日本は動き出す。

豊洲の移転話をはじめとして、東京オリンピック会場も2年先となると見えてくるものがある。

 

現実にどうなるかはその時になってみなければわからないけれど、一説では、2020年を契機に、景気が減速するとも言われている。

2017年は株価が全体として大変盛り上がった年らしい。だが庶民の感覚としては、たぶんそんなに景気が良くなった実感はないのではないだろうか。

これ、1988年あたりのバブルの状況と、数値をもとにして比較する人が出てきても面白いと思うのだけれど。たぶん、当時も、「そんなに景気がいいのか?テレビでは景気がいいこと言っているけど、俺の周りじゃぁ…」と思っていた人が多数いたんじゃないだろうか。

 

いつの時代でも、その時代の真っただ中にいるときに、「あぁ、俺は今、そんな時代のど真ん中にいる!」と思えている人はたぶんいない。後から振り返ってみて初めて、「あぁ、あそこが時代の転換点だったのかもしれないな…」と感じるのが精いっぱいじゃないだろうか。

 

とすると、今から始まる2018年はどんな年になるのだろうか?ここまでの2017年からの流れはなんなのだろうか。いや、まず2017年をきちんと見据えてみて、それを背景にして、その理解をもとにして、2018年を俯瞰する、想像するのがいいのかもしれない。

べつに「日本経済は!」なんて大きなことを予想する必要はなく、自分の身の回り、自分の中における「2018年」が想像できればいいんじゃないだろうか、と個人的には考える。たとえば、去年の初めはTOEICが450点台だったあたりから、550点台が出せるようになってきた。勉強の成果が出た。今年こそ600点の大台へ!といった予想で構わないと思うのだ。

 

目標を立てれば、それなりに努力すべき内容が見えてくる。

あなたの今年の目標は何ですか?例えば、4ヶ月に一度、4月30日、8月31日をマイルストーンにして、計画して見ませんか?

 

 

継承

テレビがある意味黄金時代になった時。たぶん今から40年から50年くらい前あたりなんだろうか。テレビでは、往年の名画/映画を、毎週やる時間があった。

日曜洋画劇場にはじまり、月曜、水曜、金曜、土曜…。

ほぼ毎日どこかのチャンネルで映画をやっていて、お昼はお昼でB級映画もやっていたりした。

しかしいつしか、テレビにおける映画枠は減っていった。1990年代あたりからだろうか。未だに某局では、ジブリ映画が秋口に放送されたりするけれど、あれは過去の名残。

原因はいろいろあるかもしれないが、そもそも現代においては、ネットを通じたビデオオンデマンドが、日本においてはほぼ確立されている時代。テレビでの映画がなくなったのはもっと前からで、それだけが原因では無いだろう。その理由の一つははたぶん、VHSの普及、その後のDVDの普及、そしてレンタル事業の伸びによるところが大きかったのだろうと思われる。

 

昭和が平成に切り替わった際、大喪の礼という国民の祭日があり、前日からレンタルビデオ屋の棚が空っぽになったなどという情報は、すでに30年近く前の話。でも今の世の中ではたぶんそれは起きなくて、みんなネットで何とか対応できてしまう、そんな時代。

そう、昨今は、ネット番組が幅を広げているから、娯楽が多岐に渡っているから、だ。

 

そしてそんなネットにおいて流れているのは、往年のテレビアニメ、ドラマが、まずはどんどんと流れている状況。自分たち(ネットコンテンツプロバイダ)で作ったコンテンツがないから、過去の作品でなんとか番組をつなげている状況。

これ、上記の「テレビが映画を流していた」のと、まったく同じ構図じゃないですか?自分たちのひと世代前のメディア向けコンテンツを用いて、自分たちのチャンネルを埋めている。

でももちろん、すでにネット配信業者は、自らコンテンツを作り出しているし、そしてそれが、ネットであるがゆえに全世界配信を狙えることもあり、莫大な予算を投じて高クオリティのコンテンツを作ることで、圧倒的差異を生み出して、ほかのメディアの追随を許さない状況を生み出しつつある。

ただしそこに、日本のコンテンツプロバイダは…。

 

本家は常にそうして追い越され、塗り替えられていく。

…と、その次は何なのかな?あと25年くらいすると見えてくるのかも。

ベーシックインカムという思考実験

ベーシックインカムという考え方が徐々に浸透しつつある。

すでに実験的に実施されている国もあると聞くけれど、本当に効果があるのかどうかはまだまだ実験段階レベルを出ていない、そういう意味ではまだ壮大な思考実験、一部社会実験的色合いが濃い内容。

 

ただ、資本主義があまりに行きすぎる、要するにノブレスオブリージュといった発想を持たない金の亡者たちだけの世界になってしまうと、これは完全に、持つ者と持たざる者に二極化する可能性が出てくる。

さらに、昨今の技術革新により、人間が汗水たらして働かなくとも、日々の生活必需品は、自動化で賄えるようになるのなら、そうした部分はベーシックインカムで取りまとめ、「働きたい人が働く」とか、「人が働かなければならないところにのみ高級をもって働いてもらう」という世界が来る可能性は当然出てくるだろう。

 

で、考えるのだ。ベーシックインカムでみな、通常のつつましい生活なら十分に賄える収入を保証される程度が配給されるとするならば、今の日本社会において、インフラサービスは成り立つのか?と。

 

これはある意味、こういうことをあからさまにするのではないだろうか?

それは、今高級をもらっているところが、正しく高級をもらえるほどの価値を生み出している仕事ではなかったり、またその逆で、今は低賃金で働かされているところが、実はもっと高級を支払わなければ働く人が集まらないのではないか?ということ。

 

すぐに完ぺきな、SFのような未来が来るわけではない。となると、まだまだ人間がやらねばならない仕事も残しながら、実質的には、徐々にベーシックインカム社会が浸透し始めると考えると、真の高級を支払うべき大変な仕事、しんどい仕事はどれなのか?ということに。

 

銀行員が大量にリストラされる世界がすく底に見えている。

仕事の価値観が根底から覆される社会も、当然起こりえる未来の一つじゃないだろうか。

 

喜びは苦しみとともに

何か新しい発見をしたり、真の価値を生み出したりした時、自分の中に閃光のような、ひらめきのような、よしっ!やったぞ!というものが沸き上がったりする。

これでビジネスになる!、大きなブレークスルーになる!、一気にトップに立てる等々、様々な思いが駆け巡る。

夢は膨らむ。

これを契機にこうして行きたい、ああしたい、ここをこう改善してこんな未来を作りたい。

 

…と同時にたぶんその価値が大きな価値であればあるほど、たぶん見つけたこと以上の大きな苦しみが付きまとう。大きな価値が生じるとき、大きな発見がなされるとき、ほかの人々はそれがあまりに突飛すぎて、難しすぎて、理解できない、納得できない事が。どうして今までと違うのか?なぜそれが面白いのか?どこにそんな価値があるのか?たぶん価値が大きければ大きいほど、多くの人にはわからないのだ。逆に言えば、わからないからこそ価値が高いとも言える。

 

しかし、誰かに認められてこその「価値」であるから、誰にも分らないものでは「世間的な価値」にならない。だからこそ誰かに認めてもらう必要がある。そのために噛んで含んで懇切丁寧に説明し、もしくはそんな手間すら省いて自分で大きな何かを生み出して事業に仕上げてしまったり、仕事を成し遂げてしまったりと、抽象ではなく具象で決着をつける人もいる。が、それは行動力とお金と時間といった三拍子そろっている人にしかできないこと。

 

新たな時代に変わるとき、新たな価値が生まれるとき、新たな事象に切り替わるとき、新たなビジネスが起きるとき、それはやってくる。そしてそれはたぶん、既存の組織や既存の理解ではわからないものであり、「既存」によって、当初は変わり者扱いされたり、変人扱いされることも多々あるだろう。

でもそうして本当の価値を生み出した者が初志貫徹することにより、時代やテクノロジーが変化する。だからこそ彼らは大きな富を手にしたりするのだけれど、そういう人に限って、単なる「富」は必要なく、さらに新しいこと、もっと面白いことのほうがよほど「富」よりも価値あることになるんだろう。

 

来年はどんなことができるかな。どんなものが出て来るかな。

まだ、興味は尽きない。

 

気がきくということ

多くの人と仕事をしていると、いやこの人はすごいとか、気が利く人だ、といったこの差が、否が応でも気になることがある。

 

気が利く人、というのは、たぶん何をやってもうまくやるだろうし、誰からも頼られるのは間違いないだろう。ものの本でも、「気が利く人になりましょう」などと説かれる。

で、思うのだ、「気が利く人」って、どうすればなれるのか?

 

気が利く、と感じたのは、たぶん誰かが何かをしようと思ったときに、それに先回りするかのように準備が整っていたり、ふと必要になるサポートが、欲しいと思ったときに用意されていたりする、そんな瞬間ではないだろうか?でもそんなことどうすればできるのだろうか?

 

たぶん、こうではないか?

気が利く人は、「そのこと」を、一緒に考えている、それも深く考えているのだと。もし自分がそれをする立場になったら、何が必要か?どんな場所になるか?何を使うか?どんな道具がいるか?そのあと何が起きるか?それを置く場所はあるか?などなど、想像し始めれば色々見えてくる。それに対して「想像したことが起こった」際の準備をし、スッとタイミングよく手を差し伸べる。

 

やっぱり、考えることに落ちがつく。

感がえる癖、考え方、考える時間などなど、やっぱりこれに尽きるかな。

今年も考えられたかな。

そろそろ年も押し詰まってきた感がある。単なる月末なんだけど。