ハシゴ、道

あなたには、やりたいことがあるだろうか?成し遂げたいことがあるだろうか?

いや、大それたことを期待しているのではない。些細な、小さな目標で構わない。そうした何かをお持ちだろうか?

 

子供のころには夢があった。テレビで見たスーパーヒーローになりたい…から始まり、あこがれの先生になりたかったり、町の食べ物屋さん、コックさんになりたかった人もいるだろう。でもどうしてそれになれる人と、なれない人がいるのか?

もちろん、その後に目標が変わることもある。でも、ずっとあこがれていても、「憧れ」で終わっているだけだったものはないだろうか?そこへの道筋、目標に向けた「ハシゴ」をかけていただろうか?

 

目標値が「ある」のはわかっていても、そこへの「行き方」、「道のり」がわかっていなければ、その目標には到達できない。ただ単に、偶然に「その道」に迷い込むこともなくはないだろうけれど、そんな偶然の確率でたどり着けるのは、たぶん万に一つくらいだろう。

となれば、その目標の地、憧れに向けて、自分で「行き方」を探らねばならない。道のりを決めなければならない。どうすれば行きつけるのか、行きつく道のりには何があるのか?場合によっては「流れのはやい川」が横たわっているかもしれない。「険しい山」にさえぎられているかもしれない。それが事前にわかれば、それに対する準備もできるし、場合によってはう回路を探すこともできるかもしれない。だからこそ「目的地」を定め、「行き方」を探る。

 

夢を持とう。そして、それにとどくハシゴをかけようじゃないか。

その道を描けていないからこそ、夢は夢のまま終わってしまうんじゃないかな?

はがき

国内のはがきが62円に値上がりしたのが、今年の年賀状のシーズンを過ぎた後。年賀状の送付枚数も、もう何年も減少傾向に歯止めがかかっていないんじゃないかと思われる。すでに年賀状ではなく、オンラインメディア、それこそメールをはじめとして、LINEや各種SNSで十分だと思っている人はごまんといるだろう。

 

それとは別に、先日、とある用事があって、北米の方に「はがき」を出す機会があった。せっかくだからと日本のよい風景が描かれている絵葉書を選び、どのように住所は書くんだっけ?などと古い記憶を呼び出しながらペンで書く文章。いや、久々にキーボード以外で書くと、これがまたいろいろ書けなくて困る…。

一通り書いたうえで、さて出そうかと郵便局へと立ち寄った。北米までです、といってはがきを出したところ、

「70円です」

と。

正直驚いた。国内ですらすでに62円なのに、北米までで70円!相互通信上の料金的規約があるのか何かは全く知らないけれど、いや、こんなにお安いなんて。

 

みなさん、海外の知人、友人に「はがき」で出してみません?結構新鮮で、サプライズになりますよ。文字を手書きしてみるのも、悪くはないんじゃないですか?(笑)

 

 

私バカだから…

私が嫌いなタイプは、そもそも自分で学ぶつもりは全くなく、単なる余興として、相手の知識を掘り出そうとするヤカラ。こっちの知識をタダで盗む…とまでは言わないものの、悪いたとえで言えば、猿回しが猿に向かって「踊れ」と言っているような印象さえ抱くことがある。

 

これが飲み会や余興の席なら、まだ笑い話として一笑にふしてもいいかもしれない。真剣に話さなくても、それなりのかわし方もあるだろう。しかしこれが、たとえば仕事だったり、何かを学びたいと「口先では」言っているものであったとして、にもかかわらず記録に取る姿勢、メモを取る姿勢を示さないものに対しては、私はどうしても本気になれない。それは単なる「今教えろ、ただし覚えるつもりはあまりない!」圧力以外の何物でもないではないかと。

 

特に場合によっては態度で、時には言葉で「私バカだから、教えてください」とのたまうやつらはどういうつもりなのか。そこで得る対価を意識しているモノがどのくらいいるのか、大変気になって仕方がない。

 

別に大金が欲しいんじゃない。時には、

「見解が聞きたいんだ。飯をおごるから…」と言ってくれる者もある。そう、その心遣い、それを認識しているかどうか?がすべてを分ける。

「とにかく教えてくれ(タダで)」はまったく意識していない、いわゆるフリーライダー状態。そうした奴らに限って…とは言わないけれど、自分からはなかなか情報は出してこない。相手の情報をどん欲に吸収するだけの側に回る。

 

世の中はギブアンドテイクで回っている。先に「出せ」はあり得ない。それはやり方によっては脅しに過ぎない。であるがゆえに、「出す方」は「これで何が得られるか?」を注視している場合が少なくない。別に金銭に限らず、ポジションや情報や関係性や、何かを出すつもりなのかどうなのか?

それが意識できていないもの、特に意識して出してこないものには、当然ながら「塩対応」にならざるを得ないでしょ。1度は成功しても、2度とは無理だからね。

心の中に絵を描く

本を読む、特に物語を読むというのは、それを聴きながら、心の中にその情景を描く事ではないだろうか?

子供のころは、意識せずに行っていたかもしれないけれど、大人になった今となっては特に、意識して「心の中に情景を描く」ことを行ってみてもいいかもしれない。

 

なんとなく見ている普段の日常の風景、なんとなく見ている人物、店、看板…。そういうパーツで構成されている日常世界だけれど、さてその風景に生えている木の種類は?葉っぱは茂っているのかどうなのか?葉っぱの色は?木の幹の太さは?人はそこに何人いるのか?どんな色の上着を着ている?かばんは?男性?女性?こう考えだした瞬間に、いかに自分たちがイメージしているもの、見ているものをあやふやなものとしてしか捉えていないということが見えてくる。

 

いや、本来それで何の問題もない。逆に言えば、そこまで考えないからこそ頭も疲れないわけで、無意識的にそうした注意力、集中力をセーブしていると考えられなくもない。

でも逆に、そこまで細かく考え始めたら?そう、意識して「考え」始めたら?そこで考えるべきこと、注意を払うべきことは山のように増えてくる。そしてその考えるという回路が動き始める。多分それくらい、普段は考えるという回路を動かさずに生活しているのではないか?

 

物事を考えるというのはこういうことでは。であるがゆえに、常日頃からずっとできる、やり続けられるものではない。当然ながら相当なエネルギーがかかるから。でも、一度やり方を知れば、必要な時にはいつでも、「丁寧に考えることができる」というのは、たぶん大きな武器だ。

丁寧に考える。考える方法を身につける。そのために、心の中に絵を描いてみませんか?

 

「正確さ」ポリス

「〇〇警察」という言い方があるらしい。

たとえば「VR警察」。これは、「ヴァーチャルリアリティ」とは何か?ということに関して、そうでないことに対して「VR]とか「ヴァーチャル…」と言っているのを見つけると、「間違っってます!」と事細かに指摘を飛ばす。昨今であれば、Twitterをはじめとするネットメディアでの批判が容赦なく飛ぶ。

まだ世間が慣れていない言葉において、たとえば最近なら「AIスピーカー」は「AIっていうな!」とか「仮想通貨」は「そもそもすべての通貨が仮想だろっ!暗号通貨って呼べっ!」とかとか。

 

気持ちはわからなくはないけれど、それに目くじらを立てたところで、さらに細かな分類が出てきたり、そもそもその言葉のオリジナルが生まれた海外での認識とでずれが出ていたりして、すべての言葉の意味を、全人類、いやいや全国民レベルでも、寸分たがわずに一致させることは不可能だ。言葉は生き物、成長する市変化する、だからより分類が細かくできているほうが正しい…わけではない。

 

そもそもを考えてみるといい。

たとえば病(やまい)とは何か?

近代医学が発達する以前は、せいぜい「体調が悪い」という「不調」から始まったはず。それでは対処のしようがないため、「じゃぁ頭が痛いの?腕?体?足?」くらいに分けてみる。さらに身体の「外側」か「中側」なのか。ここまでくると外科か内科か。

さらに内科にしても、心臓なのか、肺なのか、肝臓なのか、腎臓なのか…。

結局、人は、より細分化してくることにより、その問題「そのもの」を解決する方向へと突き進んできた。それはとりもなおさず、問題個所を細分化し、特定してきたことに他ならない。であるため、「少し以前」の分類で考えたところで「今」の分類では範囲が大きすぎたり、大まかすぎたりすることは、当たり前のようにあることだろう。

そして昨今は、それが遺伝子レベルにまで細分化が行き着きつつある状況か。

 

…そして思う。そうして完全に原子1つをピンポイントで修正できるようになったところで、それを修正することによるその周りの影響は無視できなくなって、周囲とのバランスをとって対処せざるを得なくなる…のでは。正確さを突き詰めて1点を見出すことで、その周囲とその関係とを一体としてバランスをとらなければならなくなる時がやがて来そうな気がしている。追及するために分解し、正確に一つ一つを理解することで、翻って全体としてとらえなければならなくなるのでは、ということ。