完成 という通過点

何かの商品、サービス、モノ…なんでもよい、「完成させた!」というのは自分としての達成感、チームの達成感の頂点となる。ゴール!

 

…と考えていたところがあった、今までは。

でもよくよく考えてみると、特にビジネスにおいては、それを使って次の展開があったり、次期商品やサービスは、それの更なるバージョンアップ、機能アップが望まれるのが当然のこと。だから、そこが究極の到達点であってはならず、「現在イメージしていた目標値」でしかない。

要するにこれ以上高みのないチョモランマの頂上ではなく、連山のひとつのピークではあるけれど、その先にはさらなる高みが連綿と連なっているところだと言うこと。

 

いや、本当にそれをもって「終わる」「次はない」のならばまだよい。それこそ自分の人生として、これを最後に止めるのならそれはある意味ゴールだろう。ある意味、それは自分で決める事。

テレビ番組でも、連続ドラマでも、何かをもって終了するなら、それはそれで意味はある。

だが普通、ビジネスにおいては、必ず続いていくもの。現実にはその続けるための変革ができなくなる時、変わり続けられない時こそが寿命となるのだけれど、多くの企業がそれを乗り越え、何十年、何百年と営み続けている。会社を畳んでビジネスを終わりにするか、隠居生活に入って余生を過ごす覚悟があれば良いけれど、それ以外ならその先は続く。

 

と意識できれば、これまでよく口にしてきた「完成」や「ゴール」は、一つの通過点でしかなく、現実的には一つの目標値、マイルストーンの意味を持つに過ぎない。

なら完成とすら呼ぶなという人も居なくはない。だが現実的に考えれば、いつまでたっても終わりがないもの、に向き合い続けるのも誰にとっても苦しいもの。であるから、目安としてのポイント、ここまで来てるね。ウンウン順調だ。というポイントとしての完成(通過点)はそれなりの意味を持つという事。

 

個人の能力にせよ、ビジネスにせよ、それで終了、その先はありません…というのは、当たり前ではあるが、無い。いや、実際それで終わりだよと口にする人はいる。でもそれは、「そう考え」れば、たぶんそのとおり、おわる。ようするにそこから先に行く努力、労力は払いたくないという覚悟といくか、決め事。昔の日本では、大学入試あたりでよく言われていた事でもある。良い大学に「入れば」そこがゴールですか?と。
だから、それすら自分で決めているということ。その先に行くのか、そこで止まるのか。

 

 

 

忠誠心、キャリア

いま日本で壊れつつあるのはこれではないかという気がしている。それは忠誠心。

 

いや、そのその原因としては忠誠を求めるもの、求められるもの、双方にあるのだと思うのだけれど、昨今際立って目立っているのは「忠誠を求める方の裏切り」による崩壊ではないかと思う。違う言い方をすれば、それを求められている方の堪忍袋の緒が切れた感じかも。

 

一部のズル賢い悪徳起業家を除けば、ブラック企業ブラック企業になりたくてなったとは思っていない。だが昨今のような日本の経済状況の中で、全然景気が上がらずに、でも企業としては生き抜いていかねばならない状況に陥った時、「上司」は「部下」に対して、過剰な忠誠心、それは無理をしろ、体を壊すほどにまで頑張れ…と檄を飛ばすことで対処してきた現実。いや、多分その上司が、それ以外の対処方法を知らなかった、勉強不足、力不足は否めない。だがそれは道理的にも道徳的にも無理な側面がありながらも、上から下への命令として指示が下る。いままで当たり前だったものが一気に無理な命令に変われば、「いやいや、それは無理ですよ」と口答えもできたかもしれない。だが、徐々に徐々に、その無理の範囲を広げられることにより、少しずつ詰め寄られることによって、前もやったから今回もできるでしょ?と寄り切られる。ようするに「茹でガエル状態」に近く、ふと気が付くと逃げられない、引き返せないところにまで追い込まれているという事。

 

早々に、忠誠心という縛りをほどいて逃げ出せたものもいるだろう。けれど多くの日本人は、まぁ今回くらいなら、ちょっとくらいなら…と、結果的にこの20年を過ごして来てはいないか。そう、もうこんなじんわりと茹でられてのぼせ上がって脱出も復活もできないリミットが、組織単位のみならず、国全体として近づいていないか?

 

もちろん、その指示を出すことを原因として心を病んだ上司もたくさんいただろう。でもそうした人が抜けた穴を、忠誠心をいいことに武器にしてきた、ブラックにしてきた人がたくさんいたのではないだろうか?もしその時点でそんな人が少なければ、少なくともこれほどまでにブラック企業、ブラックな仕事が増える土壌にはならなかったはずだ。その意味では、ある意味での事実上間違った個人主義、俺さえ良ければ後は野となれ山となれ、という極端な考え方で、弱いものが完膚なきまでに使いたおされる。

 

結果としてブラック企業やブラックバイト、働き手の側の忠誠心をもてあそんできた結果がこうして目に見える形に、言葉になってしまったことにより、資本家と労働者との間に埋めがたい溝が生まれてしまった。そしてその結果を正しく埋め戻せないまま、たぶん多くの会社が正社員から派遣社員に切り替え、目先のコストダウンに走ることになる。

 

これをもってして多くの人々が、自分の将来の雇用を憂う。自分はこの先も働けるだろうか?そんなに特殊な能力、抜きんでた技術があるわけではない…と。
これにより少なくない人々は、自分自身の実力を良く知らず、安く搾取される仕事を甘んじて受けることにもなるだろう。だが逆に自分の力に目覚めた、気づいた人は、それを機に高く売ることができるかもしれない。

別に「世界にナンバーワンのひとつのスキルをもて」と期待されているわけではない。総合的実力として力を持てばよいだけだ。いかにそれに気づけるか?

 

それに多くの人々が気付いてしまった世界は、たぶん、それはそれで、雇用費用が高止まりする世界になるかも知れない。なぜならばそれほど素晴らしい技術、技能を持った人々なのだから。逆に言えばそうでない人々は安く買いたたかれる。
自分をどう作るのか、自分の人生、キャリアをどうイメージしていくのか?これまでのざっくり50年では「会社」が人生を作ってくれてきた側面が大きくあった日本社会。だけれど、もうそれでは立ちいかなくなっている。逆にそうしたイメージを親から刷り込まれ、これからもそうだよね…と信じているようでは搾取されてしまうかもしれない。いかに自分で道を作っていくのか?それぞれに自分の人生を作ることが、今まで以上に求められている気がしている。

 

 

 

 

 

出会う機会

最近の学生で、「紙の辞書」を使う方はどのくらいいらっしゃるのだろうか?電子辞書が出て久しい。もうほとんど電子辞書、もしくはネットに直接訪ねるのがスタンダードなんだろうか?

 

電子辞書のメリットは、軽い、便利、発音等も聞ける…だろう。すでに発音が聞けるところなど、絶対に紙の辞書にはまねができなくなっている。それに対してデメリットもなくはない。よく言われるのが、「それを引きながら、周りの情報が目に入らない」ということが言われる場合がある。
確かに、紙の辞書の場合、パラパラとめくる間に目に留まる「当初の目的ではない言葉」に心惹かれて寄り道をすることが、後々につながる何かになることもあるかもしれない…。だが、本当にそうだろうか?とも思う。それよりも、紙をめくって探し当てる時間が短くなって、いくつも探せることのほうが意味があるのではないだろうか?さらに言えば、そんな電子辞書があるのかどうかは知らないけれど、Amazonで実施されているようなリコメンドとして、「この単語を引いた人は、これによく似たこんな単語、これも一緒に探していることが多いです」といったことを、たとえばネットで共有したり、もしくは自分の検索履歴をもとに単体機器上で自己学習の上でリコメンドしてきてもよいはずだ。

 

紙の辞書でも、電子の辞書でも、重要なのはそちらではなく、「自分が意図しない何かに出会う機会」をどのように扱うのかが大切なのではないだろうか? 

 昔なら、趣味の集まりに「出かけて行って」人と出会っていた。今でも続いている有名どころはたとえば夏冬のコミケなどだろう。そこで出会うものは、すべてが自分のお気に入りではない。けれど、「今はお気に入りではない」かもしれないけれど、もしかしたらそれがきっかけで今すぐ気に入るものに変わるかもしれないし、後々お気に入りになるかもしれない。そんな出会いをいかにして作り続けるか。大切にするのか。ものの出会いも、人との出会いも、もちろん両方だ。

 

今興味がなくても、いずれこちら側からアプローチしたい人が、いや、こちら側は何とも思っていなくても、向こう側からアプローチしたくなる何かがあれば、それを契機に物事が動き出す。中には大きなビジネスにつながったり、人生を左右する人物と出会うかもしれない。

 

だから、意図して出会いを作っていくこと。出会う場に仕向けること。
たしかに最初はおっくうで、腰が重いのだけれど。 

色々な意味で、人生がかわる、未来が変わるよ。

幸せは、歩いてこない、だから歩いて行くんだよ。

 

 

バンドやろうぜ!の感覚

たぶん今でもあるんじゃないかな。バンドを組みたい!という感覚。音楽に楽しみを抱き、自分でも楽器がやりたい、バンドを組んで音楽がしたいという人はいるだろう。

早い人だと中学くらいから、多くは高校、大学あたりでバンドを組み始めたり。それでも飽き足りない場合は、社会人になっても趣味で活動を続ける人もいる。

 

これは、とらえ方にもよるけれど、僕はギターを、私はベースを、僕はサックスを、私はドラムを、そして僕がボーカルをやるという分業体制という事。それに賛同した人が集まる。場合によっては「曲の方向性が違うから」と分裂するバンドもある。もちろんそれは仕方がない事。

 

こうしたムーブメント、これからは別の分野でもあっていいのではないだろうか?それはソフトウェアツール、デジタルガジェット開発における、「バンド活動」というか「チーム活動」。

私はiOSのソフトが得意。私はサーバーサイドならいくつか経験がある。私は課金周りは経験したことが。私はarduinoは得意で。rapsberry pi、カリッカリにチューニングしますよ。私電源周りは得意ですなどなど。

これまでは、大企業しか生産できなかったような商品でも、そうした部品と、さらに場合によっては3Dプリンタなどを使って、大企業が手を出さないニッチな商品、サービスに手を伸ばす。そのためには「オールマイティーな誰か」が必要なわけではなく、ちょっとしたことに特異なメンバーが、それぞれに知識とスキルを持ち寄って集まってくる。

別に技術的のみならず、営業としてのスキル、法務としてのスキルももちろんあり。これからのことを考えると、日本語のみならず、英語は当然、中国語などへの展開もあるだろう。

 

 

たんなる「クラウドファンディング」という、すでにチームになった人に投資するのみならず、バンドを作るがごとく、「こんなことを実現したい、そのために、こんなスキルの人探してます!」という場、サイトは、これから出てくるのではないだろうか?

企業というくくりに縛られず、短期で結果を生み出す、そんなバンド活動のような生産活動ができる場、生み出せる場、これから5年で出てきそうに思うのだが。

見えていないふり

時々、見えているのに見えないふりをする人。分かっているのに分かっていないふりをする人。やっているのにやっていないふりをする人。

確かに、明らかに目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、四肢が不自由だったりすれば、そうなることもあるのかもしれない。けれどそうでない場合、いくら口ではそういったとしても、状況証拠で明らかにわかる事もある。逆に言えば、そういう疑われるような場面で、そういう行動になってしまったこと自体がミスだろう。

と、こういうことを表現した故事成語があるわけで、「李下に冠を正さず」というのはまさにこのこと。実際にそうしたかどうかはもちろん疑いの対象になるのだけれど、そもそもそのような状況に入ってしまった時点で言い訳はむなしく響くのみ。

 

もしもそんな状況においても本当にしていないというのであれば、当人の記憶と、事実の記録(たとえばビデオや音声データなど)のどちらを信じるのか?となると、明らかに「記憶」ではなく「記録」を重視するのが常識。そもそも記録があるけど記憶を重視するなら、記録の意味の半分は失われたも同然では?

 

だが昨今の日本でさえ、そもそも記録よりも記憶が通り、さらに、記録が記録として意味を成すかどうか、記録の改ざんが起きているかもしれないことを疑わねばならない…ということからして、二重三重にひどい状況が重なりつつある状況。無理が通れば…から、さらに、嘘が通れば真実が引っ込む状態で。

 

私も含めた今の大人たちは、そうした状況を、次世代を担う者たちがつぶさに見ているという事を意識できているのか?「そんなにずる賢くていいんだ、自分の利益、利己的にふるまえばいいんだ…」という未来を指し示している状況になっていることを意識できているだろうか?

 

景気のせいだけではないだろうけれど、過去から順送りに上がった結果、腐敗した上層部は一掃したい気分だ。でもそれを変える力を持っているのは、言わずと知れた国民であり、そういう人たちに選ばれたものがあらゆるところで「マツリゴト」をつかさどっているのだから。要するに天に唾する状況になっているという事か。いや、それでも、他国は見ているのですよ。

国も、大学も、ブラック企業も…。