賞味期限、消費期限

GAFA」などという本も出版されていることでお分かりの通り、Amazonの力が、危ないほどの強大化している状況がある。とはいっても確かに便利ではあるのだが。

 

他方で、日本のみならずだと思うのだが、「本屋」という店舗が続々と消滅しつつある。個人的には、「本屋」というのは私の好きな場所だ。ぶらりと立ち寄り、何冊かを手に取って立ち読みしてみる。興味を引く内容、写真、資料などがあり、これはよく理解したい、手元に続けて置いておきたいとなれば購入する。
こうして手元に手に入れた本のうち、すべてではないにせよ、何度か読み返す本がある。それは自分の人生の中で貴重な資料であり、時にひも解いて読み返すことで、「今」受け取るその意味が変わることもあり興味深い。

 

とは言え、特に日本の、都会の家屋では、さほど収納が多いはずもなく、本好きな人は本に押しつぶされそうになりながら過ごしていたりするので、泣く泣くリリースする本も出てくる。それに対するひとつの答えが、電子書籍。知人で電子書籍化している人の話も聞く。

 

ただし、本をデジタルコンテンツとして、ある意味、物理的空間を圧縮することで、利便性の反面、不便性も増しているところは無いのか?

特に、自分でジスイしたもの(これも一時期はやった言葉だけど、今どきは言わなくなったなぁ。自分で本をデジタル化する行為のこと)ならまだしも、Amazonなどのネット書店から、電子書籍を購入することで、こんなことが起きていないだろうか?

 

それは、ネット書店自体が寡占化され始めてきていること。すべての書店が同一フォーマット、同一暗号形態ならまだしも、それぞれにフォーマットが違い、ネット書店をまたがっての権利関係は今もってあいまいなところもある。そんな「とあるネット書店」経由で購入していた本が、ある日を境に読めなくなってしまう危険性。それはなぜなのかといえば、ネットを通じて購入している本の中には、「データ」そのものを購入しているのではなく、「閲覧権」を購入しているに過ぎない書店がある場合があるかあ。

 

データを購入しているのであるならば、ネット書店がつぶれても、自分のデータを読めれば特に問題はない。だが「閲覧権」を購入している場合には?版元がなくなると読めなくなる可能性がある。いわば「いったん購入すれば、今後自分が死ぬまではいつでも読める」と思っていた書籍が、「その出版元の廃業」によって、「消費期限」が来てしまう可能性があるという事。これが今まで物理的に購入していた「本」とのギャップで、問題が起きた際に大きくクローズアップされる事になる。

とは言え、まぁそうそうそんなことはないだろうと高をくくっていた人もいる。が、事実それが起き始めている。この事実がまた逆に一層、版元の寡占化、具体的にはAmazon一強へとの流れを作り始めているという事実。

 

だが、これは今初めて起きたことではなく、メディアフォーマッターがそのフォーマットを切り捨てた瞬間にこれまでも何度となく起きてきた事実ではある。

皆さんの記憶にありそうなところでは、レーザーディスクやMDなどがその例の一つではないのか。非常にまれな形で、アナログレコード、コンパクトカセットとCDは生き残り続けているけれどこれとてかなり怪しいものではある。すでに日本以外ではCDの売り上げなど風前の灯火ではないのか。

 

情報の消費期限、賞味期限がネット企業に握られている現代。閲覧機器、再生機器だって、いまから永久に作り続けられるとは限らない世界。これと対峙する根本的な対策は、たぶんまだ、ない。

 

 

使い方を求められている世界

全てが安くなり、さらに多くのものが見かけ上無料になりはじめている現在がある。デフレの日本で、消費者サイドは防衛の意味で、より安く、そして良い情報、データを手にしたいとあがき続ける。その結果としての弊害があちこちで出始めている。

 

一つは、音楽。少なくとも以前ほどの勢いはなく、瀕死に近い状況。日本ではまだCDが多少は売れているものの、音楽産業はストリーミングに変わり、昔のような儲け方とはビジネスモデルが変わりつつある。そしてそれはたぶん、まだ確固としたモデルとして確立されていなさそうだ。一部のアーティストはライブに活路を見出しているけれど、それに切り替えられていないものも。

であるがゆえに、消費サイドが「より安く」に流れていくと、場合によってはそうしたクリエイター(ミュージシャン、作家、アーティスト等々)が窮地に陥ることがある。

もちろん、彼らサイドの努力も当然必要なわけなので、彼らだけのカタを持つつもりはない。が、彼らとてそう簡単には変われない。いかにして彼らに報いているのか?本当に素晴らしい者に、払いたい対象にお金を届けるか。「今お金がないから、無料アプリで何とかしのぐ」だけで、本当にこれからもその音楽を聴き続けられるのだろうか?

音楽、映像系はそれでも、何とか次の稼ぎ方、ビジネスサイドがビジネスパターン、業界が生き残るパターンを模索し続けている。

 

別のドメインの方が社会的影響が大きいかもしれない。それはジャーナリズム。以前なら新聞社やテレビ局、雑誌社などが金をかけて取材に力を入れてきたところもあるはずなのだけれど、そのどれもがネットメディアのあおりを食らって、予算の縮小化をはかり、結果としてジャーナリズムとしての力を大きく下げ始めている。結果、ピントのぼけたニュースや、根拠の薄い情報をもとにしたニュース。最悪は「大本営発表」をそのまま垂れ流すという、ジャーナリズムの批判精神そのものを売り飛ばしたかのような情報がネットに流れ出る。
ある日を境に、パッツリと中身が変わるのなら、まだ気づく者も出やすいのだけれど、少しずつ、ジワリと変わりつつある変化は、なかなか認知されにくく、みんな今までのつもりで読み進めていると、ふと気が付いた時には、すべてが置き換えらえている、批判すべきタイミングを逸している…ということは、たぶん早晩起きる可能性が高い。

だからといって、アーティスト同様、そのジャーナリズムを金で保護する…というのも少しお門違いの気はする。

 

とはいえ、いま情報を消費する側に、黙って突き付けられている危機はこれではないのか?あなたがお金の使い方を間違えると、社会構造的にとんでもない事が起きる可能性がある。いや、誰か一人だけの責務というより、個々がほんの少しだけ意識しておくこと。お金の使い方を間違えるな、とは言わないが、少し考えていくこと、意識しておくこと。安きにのみ流れていると、とんでもないことが起きる可能性があるのではないか、と。

経済は順調だ、たぶん

経済は順調だ。メディアや国はそういい始めている。けれど労働者としてそれを「実感している人」ってどのくらいいるのだろうか?給料が上がった、ボーナスが増えた。日本の労働者の多くが感じる経済的実感で、景気の良さを感じるのはおそらくこれらの事象がほとんどではないだろうか?

逆に、景気への悪化を感じることは多々ある。光熱費の値上がりなどがまさにそれらだろう。給与はほとんど変わらないのに、インフラの維持にかかる費用だけがじわりじわりと上がっている。すぐに痛みを感じるほどではないけれど、じわじわと締め付け感があり、決して緩みはしない。

スーパーでのモノの値段もよく引き合いに出されるけれど、天候に左右される野菜などは大揺れに揺れるため、実感が乏しい。長いスパンでの変動幅を感じるよりも、短い気候変動の影響ばかりを感じる。

だが、スーパーの中の食品においても、工業的に作り出された製品の値段の多くは、物価変動を受けにくい。いわゆる景気の変動をダイレクトに受ける商品だ。小麦の値段など、アメリカとの交渉により影響を受けたり、サラダ油のねだんなどなど、何年かに一度は感じる人も多いだろう。

 

そして明らかにもう隠しきれなくなっているのは、「内容量を減らして金額を保ってきた商品」も、そろそろ限界にきているのではないかという事。

以前は、たとえば6個入っていて1パッケージだったものが、いつのころからか同じ値段で5個に減らされている。たぶん早晩4個に減るのは間違いない。名目上は「パッケージ刷新」だろうけれど、実質的には値上がりだ。

数がすぐには見えない商品もある。たとえばビスケット。以前なら18枚入りでワンパッケージだったものが、16枚になり、14枚になり12枚になり。「個包装」などといいながら2枚包みx6パックになっているのはなかなか箱の外からは感じ取りにくい。でも実質的には値上げに過ぎない。

一時期ありがちだったのは内容量。当初80gが72g、70g、65g…と減少しつつも「値段据え置き」…って、いやいや実質値上げに違いありませんから。

 

何も一律値上げを悪者扱いしたいわけではない。順当な経済成長、物価成長はあってしかるべきものだと思っている。それに、近隣諸国を見てみればわかる通り、あきらかに経済成長を遂げている国々があるのも事実。

 

それにくらべて「日本の労働者の賃金」はなぜ上がらないのか?もちろん昨今流行りの労働生産性の低さに起因するところもなにがしかはあるのだろうけれど、「それだけ」に原因を押し付け、「だから労働者は頑張りなさい」はお門違いではないか?

 

ビジネスをつかさどるマネジャー、方向性を定めるディレクター、会社経営者、組織経営者のあまりの才能の無さが、結果的に貧しい労働者を生み出している側面をひしひしと感じる。

そんな無駄な作業をなぜ続けさせるのか?意味のない労働をどうしてやめさせないのか?代替手段のあるところをなぜ無駄な労働力で何とかさせようとするのか?
これまでの成功…しか見ていないマネジャー、未来を切り開くつもりのない資本家、今の自分たちの世代のことしか考えていない政治家等々は、早く消えてほしい。

さらにもっと大きな流れで言えば、マシンやAIによる仕事の代替が進む勢いにより、「今までの仕事を失う人々の増加スピード」と、「新たな仕事が生み出されて、それらに従事できる人の増加スピード」に、明らかに差が生じ、あぶれる人々、あぶれはしないけれど付加価値の低いところに移らざるを得ない人々が世界的に増えつつあるという事。ある意味、当初の資本主義の終焉に近づいているのではないだろうか?経済は順調だ。だけど配分が偏って来ているのではないか。

 

物価は順調に上がっている。でもお金持ちだけがさらに金持ちになる世界はもうたくさんなんだけど。

太って、やせる

私が子供のころの「貧乏人」のイメージは、食べるものが足りずに痩せこけてガリガリ、というイメージ。ある意味それが刷り込まれていたといってもいいかもしれない。

 

ところが昨今のリアルな貧しい人はどうなのか?別に私は医療関係者ではないけれど、自分の住んでいる、仕事をしている環境の周りの人々を見ていると、少し貧しいかもしれない人々は、太りだす。そして究極に貧しくなると痩せ始める。

 

昨今はコンビニがどこにもはびこっている。小銭があれば、とりあえず餓死することは避けられる。(実際はコンビニは安くないはずなんだけど)そんなコンビニで買えるものは何か?特にそんな人が求めるのは、その多くが炭水化物。もちろん、野菜も小売であるけれど、「エネルギー」的に考えると、ご飯やパンや麺類に手が伸びる。結局安く効率的にエネルギーを摂取しようと考えれば、それらに手が伸び、結果的にはコメや麦に支配されているわけだ。

他方、昨今取りざたされている「炭水化物ダイエット」。それらが少量でエネルギー効率が高いことで太る原因になるからこそ、減らしましょう、食べないようにしましょうというダイエット手法。でも逆に言えば、それこそがコスト効率が高い食品であるということから、少し貧しい人々は、それらを優先的に手に入れようとすることに。

 

エネルギー値だけで考えれば、小麦に支配された人類は、結果としてかなり効率の良いエネルギー源、食料源を手にし始めているわけだ。まだまだ先進国中心だろうけれど、だからこそ先進国で無駄遣いされているエネルギーとしての食糧を効果的に分け与えられる方法が求められているという事。

 

ただ悩むべくは、美味しいものほどエネルギーが高い傾向はやはりある。だから、おいしさばかりを求めすぎて、結局カロリーオーバーになりがち。だからこそ「昔の金持ちは太って」いて逆に「貧しいものは痩せている」というステレオタイプに。

でも現実はさらにその上を行き、美味しさという快楽と、健康という二律背反した事象の中で悶えているのが金持ちであり、そこを制御できるほど(特に都会では)金をかけて健康維持している金持ち、そこまで我慢できずにそこそこおいしいけど不健康、という小金持ち、というか、やっぱりこれもある意味貧しい人かもね。

 

最近、明らかに太ってきた自分がいる。orz

 

労働人口とAIとBIと

AIが発展することによって、仕事がなくなるのか?現在の仕事の中で、なくなる仕事はこれだ!等々、雑誌を始めとするメディアでは、恐怖を煽る記事が躍る。

 

正直なところ、怖いなと思うところがあるものの、私の心の中のその恐れは小さい。そうしてなくなる仕事はたぶんいくらかはあるだろう。けれど逆に言えば、そんな「マシンに置き換えられるほどの単純な仕事」なら、置き換えられればいいのだと思っている。それは人間がわざわざすることではないからこそ、置き換えられるはずでは?さらにこれもよく語られていることだけれど、10年、20年前にはなかった仕事というのがいくらでもある。となれば、10年後、20年後は、今は存在していない仕事はたくさんあるのも予想できるはずだ。

 

たぶんそれよりも明確に暴くべきは、そうした消えゆく作業の多くが単純労働であるにもかかわらず、置き換えられずにいた仕事として、既得権として結構な額を得てきた人々。そうした人々こそが、世間の中において相対的に「甘い汁を吸えていた人」ではないのだろうか?だから正しく労働の困難さ、負荷の高さに応じて賃金が支払われていたとするならば、その人たちはもしかしたら、もっと安く賄われるべきではなかった人ではないのか?と思うわけだ。もっと苦労している人に、努力している人に、正しく報いる社会になるのは、理想を目指す方向性としては悪くないのでは?

 

もっと議論すべきは、予見すべきは、AIやマシンに置き換えられる世界が来ることによって、当初の労働による儲けが適切に労働者に分配されていたところが、いわゆる資本家にのみ資金が集中し始める可能性が高いという事。本来は働いていた労働者に分配されていたところが、マシンに置き換わることにより、賃金として支払わずともすむ世界に。

こうして資本家はよりお金がもうかり、労働者は路頭に迷う世界が想像される…からこそ、ベーシックインカム論が喧しいことになる。

 

ベーシックインカムは、ただ配分バランスがむつかしそうにも思う。であるがためいくつかの国家はそれにかじ取りをするのに非常に慎重にならざるを得ない実情を見て取れる。柔軟に、スピードをもって、制度を運用、変更、調整することができれば、もしかするとうまく回り始めるかもしれないが、今の法律の動き、法整備のスピードなどを鑑みても、なかなかおいそれと動けていない状況。こんな中でベーシックインカムを導入しても、「お金を潤沢に配布しすぎれ」ば、マシンに置き換わる前に誰も働かなくてもよいだけ配分されれば、国としてのGDPに相当する価値はてきめんに下がり、一気に貧しい国へと転げ落ちる可能性もなくはない。
逆に、「配布量が少なすぎれ」ば、結果的に労働者の現状はあまり変わらず、金持ちばかりが得をする社会が維持されて、結果的に「この仕組みではいかん!」などと適切なバランスポイントを探し出す前につぶされてしまう危険性すらある。

 

とは言え、もちろん頭のいい人たちが、シミュレーションなり統計なりを使いながら、適正であろう値をはじき出すんだろう。でもどう考えても精巧なシミュレーションによってすべて置き換えられるはずはない。それができているのなら、仮想現実社会がネット上に実現できているはずなのだけれど、それが出来ていない現実。いかんせんパラメーターが多すぎる。不確実要素が多すぎる。であるがゆえに、バタフライエフェクトで、小さな差異が大きな誤差を生む可能性は非常に高い。

 

ならば、今やっておくべきこと、準備しておくべきことは、やはりAIなどでは発想できなさそうな、手に負えなさそうなスキルを身に着けていくこと。

色々ありそうだけれど、私はその一つが、「人に興味を持つこと」なんじゃないかなと思っている。
いや、結局デジタルで置き換えらえるときに進むべきは、アナログ回帰なんじゃないだろうかと、真剣に。