二つの曲線

高校生くらいに簡単に説明して、経済の仕組みの入り口を教えるために、
「ほしい洋服、シャツが1枚3000円で、これが100枚あるとしよう。だが人気が出なかったらお店はどうするか?全然売れないから値引きをするだろう。逆に大人気なら、3000円でも飛ぶように売れる。とお店は次の仕入れ時に、若干デザインを変えて、4000円で売るかもしれない。時期出荷に至る以前に、最近だと3000円で売っているものを個人で買い占めて、オークションでプレミアをつけて、5000円、7000円で売るかもしれない。要するに人気になれば単価は上げられるし、人気がなければ単価は下げざるを得ない。この需要側と供給側とのバランスするところこそが価格になる」
なんて説明を聞いたり見たりすることがあるだろう。

いわゆる、需給曲線の右肩上がりのカーブと右肩下がりのカーブのクロスポイントが価格になるというアレだ。

 

こういう(ある意味単純化した)考え方は理解しやすく、現状を一時的に理解するには都合がいい。特にこうした二つのカーブのクロスポイントでものごとが決まるのは、上記の「需要と供給」以外にも「コストと品質」のようなところにも同じような考え方がある。
「モノとしての商品を作るためにはコストがかかるわけだけれど、では、コストをかければかけるほどモノが良くなる…わけではない。あるところを超えると、コストをかけてもそれに見合う品質につながらない。となると、コストは右肩上がり、品質は上がり方が鈍る。とクロスポイントが出るわけだ。

 

これ、今は言われていないかもしれないけれど、こんなところにも使えないだろうか?

若かりし頃は、発想や想像力は広がりやすい傾向がある。だけれどまだそれを実現できるほど社会がわかっていなかったり、社会的な力、経験値が足りない。だが歳を経ていけば、それなりに社会経験を積んだり、会社の中でポジションを得られていれば、経験値や社内の力は手に入る。だが悲しいことに、なかなか発想力や想像力には限界を生じる人が多い。

どこが最適なんだろう?いや、逆にそういうことを意識して、いかに想像力をキープし続けるためにいろいろなことに触れておくべきか、勉強するか、いかに経験値を上げておくためにはじめから仕事を頑張るか…。

「できる人」は、言われなくとも、感覚的にでも、こうしたことを実践しているんじゃないかな。

 

無意識を意識

あなたは「無意識」を意識したことがあるだろうか?

そんな論理矛盾を生じるほど、考えていない事が、たぶん無意識。

 

脳科学的にどのくらい解明しているのかは知らないけれど、たぶん何度も考えた同じ脳内信号の通り道ができることで、わざわざそこに信号を通そうかどうかを検討する必要もなく、信号が流れるようになる。また、それが肉体においては、そうすることで体が自然にそう動くことになる、それが無意識の考え方であり、無意識での行動なんじゃないだろうか。

 

これはこれで「人間において」は価値がある。それは、考えずに/意識せずに、動くことができることで、思考のエネルギーを大幅にセーブできる事だろう(考えるってエネルギーがいるのだ)。またそれによって同時に、対応速度が劇的に早くなる。逆になっていることを想像すればわかる。すべてを考えなければ動けな、意識しなければ動けないと言うことであるならば、意識して考えて決断して動きを決め動く…だけ反応は遅くなる、常に考え続ける…で脳は疲労困憊するのではないだろうか。たぶんそれでは「人」という動物は生き伸びていけなかっただろう。

 

ただ、そうして進化してきた「人」が、「人に限りなく似た何か」を作ろうとすると、無意識は課題になるのではないか?自分が考えていないモノ…を考える。って、矛盾してませんか?すでに「AI」の研究が進み、ディープラーニングという手法が発展したことで、限られた領域においては、人を超える存在になるほどの能力を見せている。だが、その進化した「AI」が、なぜその判断をするのか、その行動に出るのか、その手を打つのかが、わかっていないところがあるという。ある意味(正確性は欠くけれど)無意識が作り出されてはいないか?

 

囲碁にせよ、将棋にせよ、古くはチェスにおいてさえ、それぞれのゲームにおいて、人類最強クラスのプロに勝利してきた「AI」。だが、その「AI」のそれぞれの局面すべてが、今の人間には理解できていない。「AI」が、人類の理解、ある意味で意識領域を超え始めているという事。

 

これはやっぱり「AI」における人間の無意識領域だったりしないのだろうか?いや、実は無意識という意識できていない事の研究の突端になっていたりしないのだろうか?

「分からないことがある」という事は、それ自体が研究対象となりえるという事。

そう考えれば、まだまだ「AI」に限らず、人が追及すべき課題は多い。無意識ってなんだ。意識したら無意識がなくなる?

そんなことを「ワクワクする」と思えるか、「むつかしい事はわからん」と忌避するか。

 

自動運転の世界

日本においては、技術はもちろん、それ以上に法整備が全く追いついていない「自動運転の世界」だけれど。私はいち早く自動運転が実現してほしい派の一人だ。

 

すくなくとも今の日本の首都圏において、人口流入の方がずっと多く、一極集中が進み続けているのは事実。であるから、まぁすくなくともあと20年30年は、よほどリモート勤務が認められる世界にならない限り、このままの状況では電車の通勤ラッシュはまずなくならないだろう。だが、これも「自動運転車」の普及が進めば、それなりに状況が変わるのでは?

まず第一に、多くの人が自動運転で通勤する世の中となれば、通勤電車以上の「パーソナルスペース」を確保しながら移動ができる。そしてその移動時間は、運転に注力する必要がない。であれば、その中で着替えてもいいし、食事してもいい、朝の準備をしてもいいわけだ。

…となると、自動運転通勤の車が爆発的に増える…という可能性は出てくる。さらに、人が運転するよりも制御されている運転は、交通渋滞の推測が立てやすくはならないだろうか?ある意味、渋滞シミュレーションと同じことが実道路の上で起きるわけだから、非常に精度よく到着時間が推測できることにはなるだろう。むしろそんな中で「人が運転する車がいること」自体が、忌み嫌われる要因となりそうだ。となれば通勤時間も読みやすく。

だがこうなると、「会社に大きな駐車場が必要になるのでは?都内にそんなスペースはあるの?」という心配も。だが、それは都内に必要だろうか?何せ自動運転なのだから、送り届けた後は、自動的に少し離れた駐車スペースに入るか、ご帰宅願えればいいのではないか?

物理的に、乗降の場所が混むことは考えられる。これにはそうした乗車、降車の効率よいスペース作りは必要になるかもしれない。言ってみれば個人通勤のための、「新宿バスタ」のようなものになるのかも。

 

さらに個人的に期待するのは、旅行だ。昨今の旅行で、交通運賃、列車や飛行機運賃が非常に高くつくのは皆さんご存知だろう。それを嫌って「自家用車」での移動をする方はいらっしゃるわけだが、とはいえ現状はまだ、「誰かは運転しなければならない」。それが自動運転では、その運転の苦労がなくなるという事。家族みんな、同行者全員が、楽しみながら移動できることになり、気がつくと目的地。

…と考えると、「キャンピングカー」タイプの自動運転車がもしできれば?自宅で荷物を積み込んで、行く先をセットすると、玄関で乗り込んで、後は歓談して、お茶を飲んで、ゲームを楽しんで、映画を見ている、本を読んでいるうちに、数時間後には目的地の数十メートル手前に到着できる事に。これは夢のような世界ではないだろうか?ある意味、ドラえもんの「どこでもドア」といってもいいかもしれない。時間は超越できないけれど、空間は、確実に自動運転車が連れて行ってくれる。

 

こうなる世界が来るのなら、「自動運転車」には、速度よりも、むしろ安全性重視でもよいのではないかとすら考える。少し速度を落とすことで、安全重視の自動運転車が、人間が運転する車と共存する世界。

もちろん、「走り」を楽しみたい人もまだまだいらっしゃることだろう。しっかりと楽しんでもらいたい。最近のアンケートでは「自動運転に期待しない」と言う人が70%なんて数字も出たけれど、そもそも「母集団が小さすぎたり、均質化されたものになっているか」と言うところはしっかりと確認しておきたい。サイレントマジョリティーが多い国なのだからね。「運転以外の、移動手段」として楽しむために、そうした自動運転車が存在しえるのなら、それこそ、町から町へ、毎日移動して、旅をするのだって、列車とは違う楽しみ方ができそうで、運転を楽しみたい人はマニュアル車で、そう出ない移動手段として使いたい人は自動運転で、と、住み分ければいいだけのはず。

私はとてもとても、実現されることを期待している。

 

 

最高に効率化されていることの意味

昨今の日本の仕事におけるキーワードは働き方改革であり、その目指すものは高効率化だというのは、たぶん異論がないところだと思う。

そもそもこの「高効率化」という言葉自体なのだが、現場では「時短」のみが目指されているだけになっていないか…というのはまた別の機会に書くとして、今回はこの効率化の側面をとらえたい。

 

高効率化、ということは、無駄がないということ。無駄がないという事は、すべての作業がすべて無駄なく「今の仕事を成し遂げるためだけ」の作業に直結しているという事。

 

だが、考えてみよう。世の中には「サプライズ」というのがあるわけで、それが「絶対に起きない世界」である時のみ、「最高の高効率」で動くことができることになる。サプライズに何も備えない…わけにはいかないでしょ。裏返せば、何かのサプライズがある現実においては、「現実のサプライズへの備え」が必要になる、ということ。備えのための行動、作業が必要になるはずだということ。

その視点が抜けた、万が一の状況への対応を考えた備えすら削った上での「効率化」になっていないだろうか?特に、人の命に直結しそうな仕事、列車や飛行機の運行にはじまり、そのほかにも医療等々も含めた、様々な人命にかかわる現場にまで「効率化」を追及していないだろうか?極限の「ワンオペ」などその極みではないのだろうか?サプライズ時には、以前の体制のようなサポートを切り捨てている…という効率化。

 

たぶんそんなことを言ったところで、そもそもそんなサプライズ、リスクをどのぐらい許容するのか、など、「未来のこと」について議論したところで、その絶対の正解などないわけだ。

だが、確実に「何かが起きる」のは事実。そしてそれが起きたときの対処が「まずかった」際の責任を「あとで取るだけ」でいいのか?ということ。これこそがリスクに対する付き合い方であり、リスクに対する備え。

 

社会的にどのくらいリスクを許容するのか、起業的にリスクをどう考えるのか。「そのコンセンサスがない」というのが、たぶん一番の問題であり、一番のリスク要因なような気がしている。

 

印刷してますか

約2か月ほど前、実家からメールが飛んできた。

「プリンタが動かないのだがどうすればいいか?」

ちょうど年賀状の季節。これまでは毎年、自分で色々とデザインしてきた年賀状。それを自宅で印刷して作ってきた。が、それができなくなるという事。

 

ただ、そこで私が返したのは、

「そのプリンタ、もう5年以上使ってませんか?新しいのに買い替えるか、そうか、デザインは自分でしても、印刷は業者に任せれば?」

と。

 

今でも、だいたい10月ごろからプリンタの新製品がリリースされたり、プリンタの広告やCMが出ることがある。ですがみなさん、「印刷してますか」?年賀状以外に、何を印刷してますか?

もちろん、楽しみ方はいろいろあるので、あんなものを印刷したり、こんなものに印刷したりと楽しんでいる方もいるでしょう。が、そんなにたくさんいらっしゃるでしょうか?そんなの皆さんの周りで見つかりますか?と考えてみれば、そもそも「プリンタ商売」自体が、かなりニッチな商売に成り下がっていません?もちろんビジネス向けは別です。相変わらず仕事の現場では紙の資料は氾濫していますし、ビジネス用のレーザーカラーでたくさんのきれいなカラー資料が印刷されています。でもパーソナルでは?

 

まだニッチかもしれないけれど、それこそ、そろそろ3Dプリンタの方が重要になり始めていませんか?いや、個々人で「データを作れ」というつもりはなく、そうした個々人で印刷できる3Dデータを販売するような、そんなデータビジネス。

まだ時期尚早でしょうか?個人の楽しみとマシンスペックと。

まだまだ、時代に追いつけていないところがあるのでは?