分けて分析、合わせて対策

大学に限らないと思うけれど、物事の分析をする際には、その事象や事物を細かく分解し、一つ一つの要素に分けて、要素ごとの影響、効果を測定して分析する。大きく見ていると複雑なことでも、要素に分解することで、他の要因を排除して、「その原因そのもの」にフォーカスをできる。であるからこそ、専門分野においてだけでも、「細かに分けたその世界の一つ」という論文が無数に出てくることがある。
これが揶揄されることがある。

「そんな細かなこと、意味あるのかよ。細かすぎてわからない。意義を見出せない。」

 

全く別の視点として。

ものごとで何か課題にぶつかったりするとき。複雑にいくつもの事象が絡み合い、それらがあまりに絡まりすぎてなかなかうまく解が見つからない。けれど、今までの勘として、「たぶんこうすればうまくいきそう」という直感的な道筋はある。だがそれをうまく言い表せなかったり、証拠を示せなかったりする。まず間違いなくうまくいきそうなんだが。

 

この二つは互いに呼応しているはずだ。それは、物事を理解するためには、原因を究明し、複数の要因が絡まるにしても、その一つ一つの効果を明確にする必要があるという事。そのうえで、そうした絡まった事象を解決していくには、そうしたいくつもの要因を、どのようにうまく絡め合わせるか、絡まるのではなく、効果的に配合するというイメージのほうが近いかもしれないが。
前者は要素のみに注目し、後者は全体のみに注目している。だが実際には、まずは細かく、そして全体を示唆する視点に「切り替える」事が必要に。これを、「虫の目、鳥の目」などと言い換えたりもするのだけれど。

じっくり細かく「虫の目」で一つ一つを認識したうえで、「鳥の目」で俯瞰する形で、全体をデザインしていく。この二つができて初めて、より改善されたより効率の良い全体システムが構築されるという事。

 

ただし、この二つがどちらもできる、どちらも得意だという人は、まず間違いなく稀有な人だろう。なので、自分がどちら向きなのかを知り、そのうえで、もう一つを担ってくれるパートナーは誰が適任か?を探してもよいのではないだろうか。本田も、Appleも、ソニーも、Microsoftも、名だたる企業の多くは「一人の偉人」だけで出来上がっているのではないのだから。

両方できる…にこしたことはないが、スーパーマン…でなくても、生きていくすべはあるよ。

 

感じていることに気づくこと

仕事をしていても、「何かはわからないけれど、いつもと違う」とか「何かおかしい」という状況に遭遇することがある。この原因をとらえると、実は風邪に対していち早く手が打てたり、おかしなものを食べないで済んだり、ヘンなものを買わずに済んだり…等々、結構当たることもある。こうしたことを「虫の知らせ」と読んだり、「勘が働く」という事もあるけれど、個人的には、こう考えている。それは「自分が多数持つセンサーの何かが反応しているのだけれど、どのセンサーなのかは判断できていない。でも、どれかがおかしいと感じているという事」だと。

 

この「どのセンサーなのか」を言語化できれば、それはそれで自分自身に対する自分の認識が変わるという事、すなわち「自分を知る」という事につながるはずだ。

 

ショッピングに出かけて、「何か窮屈だ」と感じたり、「居心地の悪さ」を感じたり。カフェに入って「居心地の良さ」を感じたり、「雰囲気の良さ」を感じたり。料理屋に入って「雰囲気」はいいけれど「味」は落ちていたり、逆に「雰囲気」はいまいちなんだけれど「料理」は絶品だったり。

要するに、そうした「どのセンサー」なのかを「言葉にすること」ができれば、それが対処のきっかけとなり、解析のスタートも切れるという事。世に出ているヒットメーカーというのは、そうした「万人が感じていて、でも言語化できていないモノ」を作り出し、世に出すことによって、「そうそう!これが欲しかったんだよ!」と言わせているという事だろう。

 

なのでまず、感じよう。そして、それを言語化しようじゃないか。

ピッタリとハマった時には、本当に、これだぁ!と思うよ。

 

 

 

 

時間しかなかった

少なくとも昭和の後半から平成にかけての日本はというと、高度経済成長再び…の夢を見つつ、頑張れ、もっとやれ…という方向で仕事を推し進めてきた。だから基本的考え方は「できるまでやる」だ。

とは言え、すべての物事が時間をかければできる…とは限らない。逆を言えば「時間をかけなくても出来上がる」ものは少ないのだ。そんな中で成果を上げるためには、要するに努力している「姿勢」が大切。それをどんな形で計測できるのか?というと、結果、最も測定しやすい「労働時間」という形での測定になっていた。

 

とは言え、それだけでは誰もが身体を壊すほどに開発にいそしまされることになるわけで、そのために労使間での36協定が制定されたのであろう。事実上有名無実なところも少なくはなかったかと思うのだが。

 

結果的にその36協定は誰を優遇していたのか?今考えてみれば、「力のないマネジャー」を優遇していたのではないだろうか?仕事の進め方の精査もせず、現場任せで、大した責任もかぶらずに、結果「時間」で評価されていた労働者。要するに「労働時間」以外の測定基準、測定方法を持っていなかった、考えることを放棄したバカなマネジャーをのさばらせてしまったのではないだろうか?

 

さすがに令和の時代にはいり、働き方改革が喧しく叫ばれる昨今。残業を無尽蔵にすることは許されない。であるがゆえに、成果を出せ、しかも時間内に、というお達しが下る。以前よりは確かに一歩前進した所はあると思う。しかしそうなると次に「成果」とは何か?今月の成果は?今週の成果は?これが明確化されており、さらに測定可能な状況になっており、そのうえで、あまりに実現に不可能なターゲットを示すのではなく、努力して実現できる程度の「適切な」ターゲットをすべてのメンバーにきちんと示せている事。これが本来のマネージメントの内容だ。

 

さて、あなたの上司はどうだろうか。

「私の評価はどうやって測るのですか?」は一度聞いてみても損はないと思う。少なくとも、冬のボーナスまでには確認しておきたい項目だ。

自分の考え方を変えたくない人

社会人になっても学習が終わるわけもなく、自分で学んだり、勉強会に出たり、会社によっては講習に送り込まれることもある。

 

そんな中、若手の方々はまだいい。もう少し上の、そろそろ管理職か、もう管理職も何年もやっている…という方に多いのが、講習会、勉強会に出ているにもかかわらず、「自分の考え方に合わないものを受け入れたくない」人が、かなりの数いらっしゃるのではないかという事。いったい何しに来られているのだろうか?

 

その時の講師に(建設的ではない)ある意味けんか腰の議論を吹っかけてみたり。自分の考え方とは違う、だから受け入れられないと突っぱねてみたり。
なら、来なきゃいいのに。途中でも帰ればいいのに。変わりたく無い、変えたく無い人は周りの人からすると邪魔だからさ。

 

自分にはない視点、自分にはない観点での手法、理解の仕方を学ぶことによって、新たなブレークスルーを興したい。そのきっかけとなる学習チャンスなのではないのか?そもそも「学ぶ」「倣う」というスタンスとは違い、そうした(あえて呼ばしていただくが)偏屈の方々は、頭が固い人が多くて。自分の考え方の流儀、流れ、思考パスでなければ受け入れられない人。たぶん参加するだけ時間が無駄じゃないかなぁ。

 

 

これは私の周りから感じることだけれど、頭のいい人であればあるほど、何も「誰かを変えよう」などとは考えていない。そうして「自分が」変わらなきゃ、そうして自分が変わることをもって、結果的に、周りのみんなが変わっていくことに。要は考え方の視点であり、物事のはじめ方としての始点の取り方が違っているんじゃないのかな。

 

早い人なら小学校に入る前から、「素直」に学ぶ姿勢を持ち続けられる人…ってのは、やっぱりすごいな。

(裏を返せば、自分のやり方だけに固執したり、結果が出ていないのに、変わりたく無い人が、いかに多いことか)

 

不安の原因

世の中、不穏な事件や災害が途切れなく報道されているけれど。それらを見聞きして、あぁ怖い怖いとか、不安だとか、理由の分からない不安感に見舞われる人がいる。

で、「何が」不安なの?そもそもその「不安」をどうしたいの?

何に心配をしていて、何が不安なのかがわからないけれど、「不安だ」と口にすることがしたいのか?いや、もしそうなら文句はない。どんどん言ってくれ。ただ、そうして周りを巻き込んで、不安を流布するのはやめてほしい。

 

そしてそもそも「不安の原因」は、何で、そしてそれを何とかできるものなのかどうか?その正体すらわからずにグダグダ言っていても仕方がない。前向きの対策を考えるなら考えるで、そもそもの「原因」を探らなければどうしようもないではないか。


ただそうして原因が分かったとしても、一個人ではどうしようもないことももちろんある。それに向けて賛同者を探してチーム作りをするのも勿論あり。ただそこまでパワーも時間もないのなら、その時点で一個人で対策できることを粛々と進めるしかない。

やるべきこと、できることは、そんなに無い。であるから効果が一番高い行動をやり続けるのみ。人生なんて短い。効果を出せることなんてほんの、ほんの少しだけ。