いつもの風景

会社勤めをしていると、外回りが仕事という人は別かもしれないが、多くの人が、毎日同じような時間に家を出、同じような時間の電車やバスを待ち、同じような車両位置に陣取り、同じような面々を眺めながら、同じ会社の門をくぐり、同じオフィスに入り、同じ座席につき、昨日と似た仕事を進めることだろう。

しかし時にさまざまな理由で遅刻をして、いつもと違う時間に家を出たり、いつもの自分の会社ではない場所に直行したりすることになると、いつもと違った風景が目に飛び込んでくる。

いつもと一本電車が違うだけでも、見えてくるものは格段に変わる。話はしないものの見慣れた乗客ではなく、本当に見ず知らずの方々が乗り合う電車。

 

たいていの会社が9時前後に始まるのに備えて、社員はそれまでに会社に入ろうと通勤する。が、それがすべての社会の人の動きではないのは、言わずもがな。その後出勤した人たちがあけたお店を訪れようと人が動き出す。
昨日4月1日は春休みでもあり、子供たちや学生も多く見かけた朝10時の電車。だが多いのはご年配の方々、小さい子供連れの方々だ。

いわゆる通勤時間、ラッシュアワーにはまず見かけない人たち。ラッシュに紛れる必要もなく、自分の目的の場所に、しっかりと向かう人たち。さらに学生、生徒たち。
会社勤めをしていると、まずは見かけない人たちだけれど、それはその人たちが動く時間帯とマッチしていないだけであって、社会に存在していないということではない。けれど、働く者が自分中心で、自分の周りを見ているだけで判断してしまうと、どうしてもそういう人たちの思いが見落としてしまいがちになることもある。
特に、効率化を優先して、その人に割り当てられた仕事〝だけ”を成し遂げることを優先させようとすればするほど、その人は周りを見る余裕を失い、言われたことを猪突猛進に進めなければ達成できなくなる。人をロボットの代わりにさせている、ともいえるかもしれない。

本当は、その余裕から生まれる新たな気づき、に対する各個人で判断できるケア、対処が、社会の潤滑油になっているところがあるんだと思うのだが、今、その潤滑油は、あちこちで切れ始めているんじゃないかな?