決断と痛み

『今日の降水確率は30%。帰りが遅くなる方は、傘をお持ちいただいた方がいいでしょう。』

今日は外出だからなぁ、荷物は少ない方がいいんだよ。でも傘持って行った方がいいのかなぁ…。えぇい、なしで行く!

その結果が、やっぱり帰りに小雨に濡れて帰ったり、やったぁ!降ってない!持っていかなくて正解だったと小さな喜びに浸ったり。

 

明日、どんな服で行くか、薄着なのか厚着なのか、
どの靴を履くのか、
どの書類を準備するか。
朝の忙しいときに子供がぐずりだす。どんな対応をするべきか。
あっ、あの信号が点滅してる。走って渡るべきか、一つ待つべきか。
今日のランチ、どこのお店にしようか。
お店は決まっても、A定食にするのかB定食にするのか?
それが決まっても、小皿を一つつけるかどうか?
食事が終わったらコーヒーを飲むか飲まないか…

哲学者じゃないけれど、いつも人は選択し、決断し、実行している。あれか、これか。どれにするか、どっちにするか。

さらにより広くとらえれば、まずはそれを「選択するか/しないか?」という選択をもしている。傘を持っていくか行かないかではなく、そもそも出かけるか出かけないかという選択や、ランチをあの店にするかこの店にするかではなく、そもそも昼食をとるかとらないかという選択。

でもそもそも、大事な約束していたのに、天候に左右されて出かけないという選択肢はあり得ず。以前から調整に調整を重ねてこの後午後からガッツリ夜まで打ち合わせが入っているわけで、昼抜きで腹ペコのまま出席するなんてことはあり得ず。

ということは、自分にすぐに何らかの“火の粉”が降りかかるということであれば、たとえそこに不確実な要因が含まれていようがいまいが、ベストな解でない可能性が多分にあったとしてさえ、リスクを含んだ選択肢を選ばない/しない、という選択肢を選ばない。必ず何らかの選択肢を選び実行する。それは、すぐに自分に不具合が起きるからだ。

ということは、「それを選択しない」と先延ばしにするということは、その裏側の心理として、「自分にはすぐに、決断しなかったことの火の粉は降りかからない」という可能性がが潜む。決断しないことによる災いがなにがしかあるなら、リスクをとってでもなんらか決めるはずだ。

絶対に間違いのない決断などない。もしかしたら?の可能性を含むからこそ、万が一の時に、それを背負ってくれる人を責任者として、その決断を背負い込む。それが、責任者のかぶるべき役割の一部であり、その代償としてさまざまなものが与えられていたりする。間違いがない、万が一のことはおこならい決断ばかりなら、その人が決める意味すらないし、多すぎる代償は必要ない。決断しないならなおさら。

 

もしも今、その決断を先延ばしにすることで、どこにどのように影響するのか、誰に/どのチームに、どんな組織に、どんな職業、どんな地域に影響を及ぼすのか。これらを事前に提示しておくことにより、たぶんその決断者に、その決断の意味と重さを大きく感じてもらえるはずだ。
たとえその範囲が示されたとしても、それ自体が本当によく考え、予見できるすべてを網羅されているかどうかも、もしかすると怪しい。疑ってかかった方がいい場合さえもある。

 

結局、自分事でなければ、決断しない/できない。
であるなら、決断をゆだねられる責任者やリーダーは、どれだけチームのメンバーを、組織のメンバーを、関係者を、自分の一部として、痛みを感じることができているのか。決断からその真意が見えてくる。

儚い希望だけをちらつかせることではなく、今は痛みを伴ってでも、そのずっと先の未来を見せてくれる決断。決めないリーダーなんていらない。