小さな幸せ

あなたはどんな時に、あぁ幸せだなぁと感じますか?

 仕事がうまくいった時?
 おいしいものを食べた時?
 ほしいものが手に入った時?
 子供が幸せそうなのを見た時?

自分が、子供が、配偶者が、両親が、恋人が…と、さまざまなところでさまざまな幸せを感じる時があるんだろう。

より具体的に、たとえばとても親しい人へ、何かのお祝いの品を選んでいる時、なんてのは(私はこの時間が結構好きなんだけれど)至福の時の一つじゃないだろうか。

相手に何を贈ろうか?Aを贈ろうか、いやいやBの方が喜んでもらえるかなぁと、相手の心中を“想像して”多分これがいいんじゃないかと思われる品物を選ぶ。品物を選んだら、今度はそれをどんなラッピングにするのか、ラッピングが済んで相手の家へと赴くときに、これを受け取った相手がどんな顔をしてくれるのかを思い描く。相手が喜んでくれるであろう未来を夢見て。

そうしていよいよ、家へ到着。いよいよ相手にそれを渡し、そして包装を解いたときに、最高の瞬間がやってくる。

 


…と思っていた。

だがもう少し考えてみる。

相手が受け取り、笑顔を見せてくれた時は、本当に幸せの最高の時、なんだろうか?もうその先はない、最後の瞬間なんだよ?
それよりも、『相手に渡す家に到着し「実はこの後には、プレゼントを渡した時の笑顔が待っている」といううれしい未来が想像できる時』とか、『プレゼントを選んで、よし、これにしよう!と決めた瞬間、その先にはさらにそれを受け取った幸せな相手が想像できる時』とかのほうがわくわくドキドキしていないだろうか?。そうした瞬間というのは、期待は上向いている。数学でイメージできるとするなら、“微分のした傾きが正”。まだ上り調子だということ。

本当に相手が受け取り、商品を確認し、お礼を口にしたとき、確かにもっとも高い至福の“場所”にいるのかもしれないが、あとはワクワク感は沈静化するのみ。微分の傾きは受け取ったところで“傾き0”となり、やがて傾きは下り(負)へと向かう。

幸せは、位置やポテンシャルではなく、実は傾きではないのか?そして、その先のピークを目指している時こそが、一つの幸せではないだろうか?

その傾きが0であれば、その位置がどんなに高いところにあったとしても、やがて慣れてしまう。しかし、傾きが正、すなわち期待がいつも膨らんでいたり、より高いところを目指した未来へと進んでいることを感じることができれば、その傾きに沿って動いていることこそが幸せになる。たとえ、今はその位置が低いところであろうと、傾きが正で進んでいることが実感できるだけで、やる気が出たり、幸せを感じたりできる。

 

おいしいものを食べようと計画し、お店を選んだり、日取りが決まったりしたことで、そこに向かっていることを感じることでワクワクしたりするけれど、おいしいものを食べきった時こそがもっとも良いとき/幸せな時なんだろうか?実はそこは、満足、文字通り欲求が満ち足りた瞬間であり、もう今回のその幸せが増加する事はない。

毎週ワクワクしてみているテレビ番組が、いよいよ佳境に迫っている。来週はいよいよそれらの秘密がすべて解かれる時。あの伏線も、この伏線もどうなるんだろう。…と、ワクワクして待っている最終回一回前と、最終回が終わってしまった時と、どちらが小さな幸せを感じられるだろう?

今ほしいガジェットがある。ほしい商品を、あちらがいいか、いやこちらがいいかと比較選択している時は、やがてその商品が手に入るという方向へと幸せが満ち足りていく時間だけれど、購入を決定して、手に入った瞬間に、“欲しい”が満ち足りる瞬間は終わるのでは(ただし、そうしたガジェットめいたものの場合は、そこから別の、“使う幸せ”へと切り替わる場合があるのだが)。

なにかツールを見つけた時、それを使えば、あぁこんなことも“できるんじゃないか”、もしかしたらあんなことも“できるんじゃないか”と期待が想像が膨らむ時。(Macにそういう傾向があるようだけれど)自分でもできそうだと想像させる時。小さな幸せが膨らみ始める。
多くのツールは、それを手にした時に、あぁ、結構ややこしいな、あぁこんなに手間がかかるんだと期待がそがれることがあるけれど、ごく稀に、使えば使うほど、おっこんなこともできる!うわっこれもできる、スゲースゲーとワクワクが増す。それを使った今よりより良い未来が描けた瞬間、上るべき上り坂が見つかった瞬間。

だから、「ある頂」へとポンと連れてくることではなく、そこに連れてくる道のりを描かせる、見えていることこそが小さな幸せ。

そのサービスで、その機能で、その道具で、その商品で、その人はその先をどうイメージしてくれるだろう?