作り方

投資の世界では「卵は一つのバスケットに入れるな」という格言があるそうだ。
そのバスケット一つにすべての卵を入れておいたとき、それひとつを落としてしまっただけで、“すべての卵”が割れてしまう危険をはらんでいる。それを、すべての資産ということに例えているらしい。
A社の株だけを買うのではなく、全く違う業界のB社の株にも投資するなり、債券や為替に振るという方法でいくつかに分散せよということか。

リスクは分散せよ。一つの事由で一気に全滅するような事態には陥らないような手立てを施せということなのだろう。


同様に、売りが一つの人気商品に偏っている会社は、必死に二つ目を開発し始める。今は一つ目の商品で大きな利益が出ているけれど、それが低落し始めた時に、そうした売り上げ低迷をリカバリーできるようなものを準備しておきたい、安定した経営基盤を築きたいと経営の形を整える。


とするなら、人においても同じことだろう。一つところからのみ収入を得ることで成り立っている家計は、いわば一つのバスケットだ。そのバスケットを落としてしまったら“すべての卵”は割れ、失ってしまうのは目に見えている。
しかし、じゃあ収入を分散するといってもどうするのか?恵まれた家計であれば、株式に手を出すこともできるだろうけれどそうした家庭ばかりではない。株が上がったからと言って恩恵を受けるのは、まだまだ一部の恵まれた人たちだけだ。


では副収入を始めるのか?それはメインの収入を得ている会社から見ると、「あいつ、副収入をするほど“余裕”がある。主務に身が入ってないんじゃないか?」とみられるのは目に見えている。そもそもメインの収入でぎゅうぎゅうに効率化を迫られ仕事を詰め込まれているようでは、副収入する余力などでない。…となると、必然的に抱えられるバスケットは一つしかなくなる。

 

一つに絞る、一つに集中させるとするなら、それなりのリスクに応じた報酬で報いるべきではないのか?でないとするなら、副収入をきちんとできるように認めるといった動きがあってもよいのではないのか?それはもちろん、今の収入のメインたるところでぎゅうぎゅうに絞り上げないかわりに、もらえる賃金も下がりますよということに。

人は、一つのことに慣れると他には動きたくなくなる。一つだけのことをやってそれで事足りるなら、余計な仕事などしたくないと思う慣性が働く。飽きてくれば話は別だが、そうでない限り、楽な方へとなびきがちになる。
しかし、そうして少し楽をすることで、実は“一つのバスケット”というリスクをとっている側面が生じていることに気が付いている人はどのくらいいらっしゃるんだろう?

 

別に無理に新しい二つ目の仕事を探せ、という事ではない。少し家事に重きを置いた生活をする事で、いままで金銭で賄っていたことを自足するという稼ぎ方もあるだろう。そうすることで家計のまわり方が変わる。すべての過程がそうなることで、社会のまわり方が変わる。そうした形で回すことで(すでに事実上そうなりつつあるけれど)夫と妻の共働きで収入を得るという形が当たり前になるというのは、それはそれでよいことだろう。専業主婦が子育てするなんてモデルが一時期期待され実践されてきたけれど、そんな超ラッキーな時期を目標モデルにせず、今の時代に合ったモデルで社会が構築できるように計画を練り直す。

 

もちろん違う新しい仕事を持つのもいいだろう。今でもすでに日曜プログラマー的に小遣いを稼いでいらっしゃる方もいる事だろう。
全く違う仕事に就くことで、使う思考回路や考え方の違いが、二つの仕事に別の視点を与えて、どちらにも良い影響を与える事もある。デスクワークだけだった人、店頭で売り子しかしたことがなかった人が、違う仕事を体験できるなんていうのは、大きな価値だと思うのだが。

 

今の政治が経済を動かすに際しては、「お金のまわり」をどのように効率化させるか?という視点を最重要視させて、そこをスタート地点としているように見えて仕方がない。

 a)「お金のまわり方を変える」→

   「仕事の回し方が変わる」→

    「生活スタイル決定」

になっているけれど、本当に人が中心、人あってこその社会(人→社会)というのであれば、

 b)「望ましい生活スタイルを決める」→

   「仕事を〝今までのように”まわすやり方を変える」→

    「それによってお金がこう回る」

ということでの解を探らなくちゃいけないんじゃないだろうか?一見b)案のように見せているけれど、それはa)案として考えたものをひっくり返して説明しているだけで、本当に望ましい生活スタイルを突き詰めて考えていない、議論できていないんじゃないだろうか?


もちろん、後者b)で考えることの方が、a)より数段難しいことは言うに及ばないことなんだが。