論より証拠

『アニメが好きな人』

たぶんたくさんいらっしゃると思う。

そしてもう少し正確に言えば、「アニメが好きな人」と言うそのほとんどは、「アニメを“見るのが”好きな人」だろう。

そうそう簡単にアニメが一人で作れるものでないことは誰もが知っているだろうという前提が、そこに誤解の余地を与えにくくしている。

 

 

『テレビが好きな人』

これも多分、そのほとんどが「テレビを“視聴するのが”好きな人」だろう。

だがそれでもまだ足りない。商品の性質上もう一歩踏み込むなら、「テレビを通じたコンテンツが提供する娯楽性」が好きな人と「テレビという機器が提供するリラックス空間」が好きな人と、といったことなどなどに分かれる可能性が高い。そしてテレビという商品が、そのどこをターゲットとして狙うかで、商品の作りは変わらざるを得ないはず。

 

「コンテンツ」が好きな人には、そのコンテンツの豊富さ、臨場感等々を、どのようにリッチに仕上げるかにしのぎを削る必要があるだろう。少々設定が必要でも、よりコンテンツリッチな方向に進むことができるのなら、音声多重でも、字幕でも、俳優データベースアクセスでも、関連過去作品紹介でも…リッチコンテンツにアクセスしたい要望が満たされる方向なら、そうした操作が付与していた方がいい。(そしてたぶん、そうした物が好きな人のための機能は、レコーダーに付与されているべき機能のようなきがするが、今日は割愛。)

だが「リラックス空間」を望むなら、より簡便なアクセス、間違いやすい操作の排除といった操作性に近づくのではないだろうか。もちろんコンテンツリッチとかぶるところも出てくるだろうけれど、“そうでないところでどちらに振るか”は、その商品の向いている方向を明確に規定する。

 

 

『カメラが好きな人』

すでにデジタルカメラがあふれる社会になってほぼ10年余り。画素数も大半の人にとっては十分になり、そして国民一人に一台以上で普及しているケータイには当たり前の機能としてついている。コンパクトデジタルカメラもすでに大半が1万円少々で、普段使いには十分な機能を有していたりもする。

だけれど、この「カメラが好き」には、「テレビ」以上に、かなりの誤解の要素が含まれているような気がする。私が感じる大きなズレは「カメラというガジェット」が好きな人と「カメラで撮った“写真”」が好きな人。他にも「ビデオ映像」が好きな人などなどもいらっしゃるかもしれないが、大きくは機器そのもの好きと、それで撮影して得た作品としての写真好き、の違いのギャップはかなりあるような気がする。

 

ガジェット好きな人には、新しい機能、よりよい性能を追求したり、操作性の簡便さ、斬新さを追求した売り文句が響くだろう。秒○コマ連射とか、より小さいf値とか、カタログスペックで比較できるところも多い。

他方写真好きにもf値など、専門的見地から類推して撮れる画が想像できる人もいるだろう。さらにそれ以外に、数値には表しにくいものの、画づくり、発色、コントラストの良さなどなどといった、表現的な味わいと称されるようなところに魅かれるところがあるのではないだろうか。

この場合も「テレビ」同様、「ガジェット好き」、「写真好き」に共通する作りの部分もあるけれど、そうでない作りの部分も出てくる。その際、どちらに寄せて作るのか。そしてその寄せる方向性が一貫しているのかは、メーカーの特色としてキーポイントとなる場合もある。

何年かに一度買い変えに来るようなユーザーには差異がわからなくとも、毎日取り扱っている売り場の販売員はその傾向を知っていたりする。さらにカメラ好きで情報を収集しているマニアなら、どのメーカーがどういった傾向を持っているのかといった情報は、間違いなくつかんでいる。そしてそうした身近な友人の一言が、商品選択の重要な後押しになったりもする。

 

 

 

簡単に「○○好き」とか「○○をターゲットに」といったキーワードをベースにして開発が進みがちだったりするけれど、結局のところ、そこでの意思統一が明確であればあるほど、メッセージ性の強い商品を作れるようになるだろう。

反対に、ぼんやりとしたメッセージを放つ商品は、八方美人。誰にも好かれるかもしれないが、パンチもない。迷った時の判断は、安全な方向へ方向へと丸まり、何が売りなのかがわからなくなる。

明確なメッセージを放つ商品は、毒気もあるかもしれないが、パンチは効いている。そして最初はなかなか受け入れられなくても、ピリッとした味付けは、口コミで広がる可能性も秘めていたりする。

ただ、そうした商品メッセージを関係開発者津々浦々にきちんと浸透させることこそ、開発マネジメントの手腕にかかっている。