ほらっ、…でしょ?

Googleの自動運転装置が、膨大な情報を処理していることがわかってきた。

無人自動運転の車で、まわりは人が運転していたり/人が横断していたりというさまざまな状況を乗り終えて、既存の道路を使って事故なく目的地にたどり着くためには、さまざまな情報を総動員し、都度それらの情報を組み合わせ、判断し、次のアクションを決定し、走り続ける。

 

…ということから遡って、じゃあ「車」や「バイク」を運転している“人”が、それほどの情報処理をしている意識があるのか?と考えてみると、そこまでの意識はないかもしれない。特に運転に慣れてくればくるほど、ごく自然にそうした情報を処理し、次の動作につなげているだろう(免許取り立てで、アワアワとしたぎこちない操作になるのは、情報処理とそれに応じた機械を操作する運動処理が、スムーズに連携していないことの方が多いのではと想像するので、ここでは割愛)。

 

意識はしていなくても、自分の日頃の行動としてしみついたルーチンは、何の苦労もなくやってのける、それが“人”。たぶん意識上にのぼらなかった事にさえ対応し行動する。

だが、「意識上に上っていないこと」と、「認識できているか/いないか」ということは、多分別問題。意識せずに認識し、考えて行動せずとも対応し、意識下で情報処理されて判断されていることもありそうだ。

なので、「意識の上に上っていなかった」からといって、「その処理が行われていない」とか、ましてや「無駄な処理」だと言い切ることは早急すぎる場合が多い。認知科学や、人工知能的分野が、多分このあたりを追求してくれているんだと思うのだけれど。

 

 

仕事の効率化で間違いやすいのは、「効率化」の名の下に、「意識していないから」といった理由を論拠に「認識していない(と思っていること)」→「認識する必要がない」と削除/変更をしたことが引き金になって、品質が下がったり、逆に効率が下がったりということが起きかねないということ。そこには、意識していなかった/意識的にやってはいなかったのだけれど、「その一言」「そのひとつの動作」が、ここまで重要事項をカバーする役割りを担っていた、ということもあり得る。それは誰にもわかっていなかったもの、当人は意識せず、周りから見ていて初めてわかるものもあれば、逆に周りからではわからずとも、当人同士ではひしひしと感じているものもあるはず。

…であるということは、本当の無駄を取り除く/効率化を進めるためには、今まで意識していなかったもの/意識できなかったものを意識し、認識するところから始める必要があるんじゃないだろうか。その上で、その認識は必要なのか、そうではないのかを判断する。それは自分の内側、自分たちチームの内側の行いだけでなく、自分たちの外側の行いについての認識についてもおなじ。周りがやっていることの何があなたに関与し/関与していないのかを、意識しようとし始める必要がありそうだ。