片言隻語

“恥ずかしいという思い”はいつから芽生えたのだろう?

蛇にだまされて知恵の実を食べた時、なんていう回答が聞きたいわけではない。

 

生まれたばかりの子供は、裸で走り回るし、裸が恥ずかしいという知恵や認識はないだろう。親が走り回る我が子を追いかけて服を着せる。「ほら、裸ん坊じゃはずかしいはずかしい…」と言われても、言葉がわからない子には通じていないだろう。

だけど、そうしたその子の行動が引き起こす“周囲の反応”は、その子にフィードバックされる。あぁ、こんなことをしてはいけないんだ。“恥ずかしい”という行動なのか。みんなはしないことなんだ。そうした周りの反応はいつも決まっており、誰の前においても、それらいくつもの決まった反応がおこることから、刷り込まれる。

 

それが「周りの人がいつも笑ってくれる」という形で刷り込まれると、周りの人をもっと笑わせたい、もっと楽しくさせたいという形で、たとえばお笑いの道へと進むきっかけになるかもしれない。

 

それが「そんな恥ずかしいことはやめなさい!」と、親がきつく立ち居振る舞いをしつけるようになると、そういうことはしなくなる普通の子供になる。

 

周りがそうした「大人」ばかりならまだいいのだけれど、学校に入ると、周りも自分と同じレベルの、同じ年齢の者たちばかり。だからそうして事前に大人に刷り込まれた常識によって、互いが互いに刷り込みあい、「個」を形作り始める。面白さは互いに消しあい、そのコミュニティの中での共通概念と、それを取り巻く大人たちの概念が、それらを普通の型にはめ込む。それは羞恥心だけではなく、さまざまな感情や思いに関する相互の行動について、形成されていく。

 

 

けれどそこに、一人の奇特な理解ある大人がいたら。

 

その子のちょっとした行動が、その周りにいる子供たちには奇異に映っていたとしても、何のことはない振る舞いを、ずっとずっとやり続けることに専念していても、どんな些細な行いでも、どんなに周りの子供たちと違う行動でも、

「君の周りのみんなはおかしいというかもしれない、笑ったかもしれないけれど、私は君がやっていることはすごい事、立派なことだと思うな。頑張りなさい。応援するよ。」

と、言ってくれたら、言い続けてくれたら。

たいていは、実際にはつまらない事であることが多いだろう。それでも、そうしてずっとやり続けることが結実したら。

それがたとえノート1冊であろうと、鉢植え10鉢であろうと、工作1つであろうと、絵画1枚であろうと、どんな小さなこと、どんな些細なことでも成果として認めてあげる/それが成果なんだよと認識させてあげられたら、そうして結実させる喜びがその子供に植え付けられたら。たぶん「そうした経験そのもの」が、その子には宝物になる。

僕は(小さいことかもしれないけれど)ああして“できた”んだ、私にはこんな“ものができた”んだ。だから次はもう少しだけ頑張ったら、もう少し大きくなるかもしれない。次はもう少し遠くまで行けるかもしれない。

 

そのためには、その興味をいかに持続させてあげられるか、その一つをどこまでも追求するという面白さを伝えられるか。

ひとつ形になれば、同じことでも違うアプローチあることを学んだり。また違うものでも、前のものと同じアプローチができることを知りえる。

そうした“面白さ”“興味の持ち方”さえ伝われば、もうそれ以後は、わざわざ教えるまでもなく、自ら知りたいと思い始め、自ら学び始める。

その最初のきっかけを作れるかは、その子の周りの振る舞いにかかっている。

 

教えるべきは「面白い世界の広がり」であって「そのもの」の面白さは人それぞれ。いかに興味を持ってもらえるかに力を注ぐ。

“教えること”ではなく“興味を持たせる”。

 

いっそのこと、“教”育ではなく“興”育、とでもするべきなんじゃないか。