というわけで、シーケンシャルな日々

まだ売ってはいるだろうけれど、すでにカセットテープで音楽を聴いている人というのはごく少数だろう。多くの人はすでに、デジタルデータ化された音源を、iPhoneiPodWalkmanなどに入れて楽しんでいる。あぁ、最近ならAndroid端末もありか。

 

その割に、作られているUIが、いまだにカセットテープをもとにしたものを使っているのは、人がそうそう考え方を変えられないサガだからだろうか。

 

「FF」「REW」というのは、シーケンシャルに物事が進むのが前提のころの名称。REWなんてのはre-wind(巻き戻し)の略なのだから、テープメディアの名前そのまま。それは「テープ」メディアが提供していたインターフェイス名称。

 

CDも円盤状をしてはいるけれど、中身はシーケンシャルに情報が配置されている。ただし、そのアクセス速度が非常に早いことにおいて、テープでは実現できなかったスピードで、別の曲/トラックへと、瞬時に飛ぶことができる。

デジタルデータ、HDDでもシリコンメディアでも良いけれど、これはもうランダムアクセスが前提。ある塊でデータを配置することで、情報アクセス速度が上がるというのも事実上あるのだけれど、人間が認識できないような短時間でデータ処理するだけなら、ランダムに配置されているものをつないでつないで、一見シーケンシャルに配置されているものと同じように再生するということは、これらメディアではたやすいこと。なので本来シーケンシャルである必要がないにもかかわらず、人間は「次の曲」「ひとつ前の曲」というシーケンシャルな扱いを基本とする。

 

裏を返せば、あるひとまとまりの時間において、人間は流れに乗って作業をすすめたり、思考を進めたりするということで効率性を上げているところがある、ということにも通じているような気がする。

違う言い方をすれば、短時間でやっている内容、判断基準などが、パカパカ切り替わるような仕事は切り替えが難しい。ましてや、その仕事のために周りの準備までひっくるめて切り替わらなければならないようなことは、物理的効率の観点から限界がある。

 

コンピュータでのプリエンプティブマルチタスクは、人間でいえば、仕事と一緒に、仕事をする環境まで含めて、短時間にガッチャンガッチャン切り替わることで実現できているのだけれど、それはCPUが高速化してきたことの恩恵を多分に受けている。

だけれど、人間の処理能力および、環境変更能力は、思考の切り替えから初めて、開いている資料や本、パソコンソフトや関係者一覧リスト等々含めて、そんなにガッチャンガッチャン変えてやるのはかなりきつい。と考えれば、ある程度シーケンシャルに、塊で、仕事を処理するということこそが、効率化への第一歩。

 

塊で処理するためには、そのための段取りが重要となる。「あっ!」と当初とは別の、急ぎでやらなければならないことを急に思い出した瞬間に、塊の時間に割り込みが入って邪魔をする、ということを極力避けるための段取り。そのためには事前に、思いつく限りのすべてのタスクを書き出し、段取りを組む(それでも、緊急の割り込みはしょうがないのだけれど、それはリスク扱いだ)。そしてそれは、時間に縛られたシーケンシャルに。

 

結局、日々過ごしているのはシーケンシャルな日々。どれだけ、無駄なタスク切り替え、タスクスイッチングを減らし、環境チェンジ手続き、思考切り替え手続きを減らせるか、軽減できるかが勝負。(切り替え手続きを簡略化できる手法があれば、それでもかまわないんだけど)

 

マルチに見えているようで、シーケンシャルにしか扱えない。人生の流れは、一本道しか歩めない。