違うべき中身

昔、行きつけの中華料理店があった。おいしい、ということが第一の理由だけれど、値段が安いとか、サービスにそつがないとか、細々としたところに気が利いているというのが見て取れたので、何度も通った。

 

気が付いたのは「箸」だった。以前はふつうの箸で、人口象牙?かなにかでできた、洗って繰り返し使えるようなものが出ていた。が、ある時からそれは割り箸に代わっていた。

メニューも少し品ぞろえが変わった。当然、値段も変わった。料理の盛り、味、皿などの見栄えなども微妙に変わった。出てくるビールのグラスの大きさが、以前より細身になった。同じ「生の中ジョッキ」が少し少なくなった。

 

コックが変わったのかもしれない、オーナーの方針が変わったのかもしれない。しかし、店の外から見ている分には、店の名前も、店の造りも、以前と変わりない。でも明らかに、何かが変わり、サービスは低下したと感じられ、それにつれて料理の味も落ちたような気がした。

 

それでもまだ数回通ったのだけれど、やがて、「あぁ、たぶんもうここへは来ないね」という劣化への思いが募り、その店には寄り付かなくなった。

それ以後そのお店には行っていない。

 

同じ器に入っていたとしても、中身が違っていればそれは違うもの。人々は器で評価するのではなく、中身で評価する。(だから、たまーに、器はぜんぜん気にかけない粗末な物なんだけれど、中身がやたらにおいしいお店が流行ったりもするよね。)

求めるモノというのは「料理そのもの」という人が多いかもしれないが、料理もそうだが、むしろ「その店の名前についたステータス自体を身にまとうこと(そのお店に通っているんですよ)」ということという人もいるかもしれない。その人にとっては店自体が存在すればいいのだけれど…。

 

 

屋号が同じであったとしても、時代を経ることで、社会環境は変わるし、当然経営者も代替わりせざるを得なくなる。その時に、以前と同じようなモノや事を提供できるのか?中身を提供できるのか?いやそれは「以前と全く同じ」ではなく、以前が「以前の時代においてのそのモノのポジション」を持っていたのと等しい、「今の時代においての、同様のポジションを持ち得るモノ」を提供できているのか。

 

そして「私たちが提供する“中身”」とは何か?が、きちんと認識できているか。