ルールを扱うもの

小さいころにスポーツにいそしむことで、ルールの大切さや、ルールを守ることの意義を学ぶ…ということを期待する親はいるだろう。フェアプレーの精神や、やってはいけないことをしてしまうと、それはペナルティとして、自分に返ってくることを学んだりする。

ルールを守ろう。きちんと作られたルールの範囲で精一杯やろうと努力する。

 

 

ところが、大人になると気づくことがある。

ルールは変わるのだと。

決まっているルールは変わらない、と信じていた世界とは違い、実は社会では、ルールは時に微妙に、時にドラスティックに変わっている。

ただし、それは誰もがそれを変えてよい、ということにはなっていない。それは“ルールを変更するルール”にのっとって、ルールを変更することができる者が、ルールを変更していく。

 

時にそれは、商業主義的側面を強調せんがために変更されたり。あるチームだけが強すぎて、ゲームとして成立しなくなりそうになったときに、それらを補正するルールを導入する。

尋常ではない努力をした一部の個人やチームが突出することがある。それはそのチームの実力/努力の結果なのだけれど、システム全体としてはそれが独占的/継続的に勝ち続ける弊害を恐れて、その弊害を圧縮する方向への力が働いたりもする。それまで努力していた「プレーヤー」からするといい迷惑。これまで公であったルールが変更される。そんなのは聞いていない!そんな変更はインチキだ!と言いたくなる時もある。

 

それらルールは、従うのはその参加者すべてだけれど、変更するのは、その「ルールを変更するルール」に決められた者のみ。たいてい、その参加者すべての意思や意図をくんだ上で、ルールを扱える者がその見識や裁量により、そのゲームや業界を直接的/間接的に、面白くも、またつまらなくも仕立てることになる。すべての参加者に恩恵を与えるルール変更もあれば、一部の者のみに制裁的に影響を与えるルール変更もありえる。

どうしてそこがそのようにルール変更されたのか。その変更にも、当然ながら理由があるはずで、それが誰の納得を得られるか。

 

参加者の中には、そうして変更された「ルールに行いを合わせることが得意な人」と、「自分の行いにルールを従わせる方向へ持っていくのが得意な人」とがいる。