無理が通るも通らないも

小さいころは、どんな子供もまず間違いなく「○○ごっこ」に興じるだろう。

 

“ごっこ”とは、その役になりきること、その役がやるであろうことをしたつもり、やったつもりになること、「真似事」。お父さんの役、お母さんの役で進む“ままごと”もそうだし、名前の通りお医者さんごっこ、お姫様ごっこもそうだ。スーパーヒーローごっこもそうだし、人気アニメごっこなんていうのもあるだろう。

 

そこでは「…があるつもり」「…をやったつもり」のオンパレード。食事を作ったつもり、食事を食べたつもり、おなかが痛いつもり、熱があるつもり、怪獣がいるつもり、光線銃を撃ったつもり、ロケットを発射したつもり、変身したつもり、ビームを出したつもり、やっつけたつもり…。

とても楽しい時間。だけれど多分視覚的にはほとんど何も変わっていない。ちょっとしたプラスチックのおもちゃが銃になったり電話になったり、すべては“頭の中”で補完されて事が進む。

 

けれど、それがだんだんと齢を重ねるにつれ“実物のモノ”で置き換えられ始める。さすがに「光線銃」が、実物に置き換わるわけはないけれど、手っ取り早いところで「衣装」が実物に近いものに置き換わり始める。

物理的機能性まで求められるようなヒーローの衣装は難しいが、ひらひら、フリフリの見てくれ重視の女の子向け衣装なら、そのものにごく近いところまで置き換えられる。

こうして服装への興味が深まり始める。

男の子向けでも、以前はなかなかテレビの中のような形の音やアクション、機能を、おもちゃで実現するところは難しかったかもしれない。でも最近の技術の高まりで、テレビの中のものとほとんど変わりない音やアクションが可能なガジェットが適宜(ほぼワンクールごとに)作られ、売られ始める(いや、商売の狙いはこっちなんだもの)。ガジェットへの興味が深まり始める。

 

こうしていつのころからか、「頭の中で想像する」という事をもって楽しみが成就されていたものが、物理的なモノの形が“与えられ”て成就することに変わり始める。それでもまだ、そうしたモノを持ちながら、想像の世界で“なりきる”ことが楽しい。

 

けれど、今どきのおもちゃの出来があまりに良すぎるので、すでに想像の余地は小さくなりつつあるのではないだろうか。本当は、想像/創造することこそ楽しかったり、実は後々価値があることだったりするんだと思うんだよなぁ。

 

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自分が“なり切る”のとはちょっと違うところもあるけれど、想像をたくましくすれば、「私の周り」の世界は、一瞬にして海にも山にもジャングルにもなれば、サイズや時代さえも飛び越えることができる。

 

そこにはやりたいことがあふれている、なりたいものがあふれている。そうなることが無理だとか、無駄だとか、できないよ普通だとか、あきらめなどする必要も何もない。そして実在する世界は、そんな子供たちの想像のさらに上を行く不思議な世界が展開している。いくらでも広がる、拡げられる。

その一方で、大人の世界は制約があふれている。「いつまでにやらなければならない」をはじめとして制約だらけで、どんどん諦めさせようとする力が働く。でも子供時代には、時間は(感覚的には)無限にあるし、想像は無限に膨らむ。

 

もっとはじけろ、ちびっこ!