動き続ける/とどまり続ける

考える前にまず動けとか、動きながら考えろとか、止まるなといった指示が飛びがちな昨今だけれど、止まっていること/とどまり続けていることというのには、いくつかの事象がありそうだ。

 

まず当人が本当に止まってしまっているという場合。周りが動こうと、事態がどう変わろうと、けっして動かない。「当人の時空間的絶対的位置が変わらない」という意味での動かない。これを(a)としようか。

 

当人としては止まっているのだけれど、それは時代の流れの中において止まっていることで、ある意味、時代の流れを敏感に察知して、それと同等のスピードで動き続けている。いわば、「時代と当人との間における相対速度が0」という意味での動かない。これを(b)としてみる。

 

“人”対“時代”においてはこの二つ。止まると言ったってしれている。

 

 

ところが人は一人では生きておらず、他の人との関係性もあるのが当然。止まっているというのは、対時代以外にも、他の人ととの関係性も当然ある。

 

二人の人、Xさん、Yさんがいたとして、そのどちらもが上記の(a)のような立場をとる時。XさんとYさんの関係性は変わらず、ずっと関係性としては保持し続けられるであろう。当たり前だ。二人とも本当に時代に取り残されようが止まっているのだから。

 

Xさんは(a)的スタンスで絶対的にとどまり続け、Yさんは(b)的スタンスで時代との相対速度0としてとどまり続けると、二人の関係はあっという間にかけ離れていってしまう。これも当然だ。

 

面白いのは次の二つだ。

 

XさんYさんがともに(b)的スタンス、すなわち時代との相対速度0のつもりでふるまう時。それは同じ速度でXさんYさんともに、時代の波に乗りながら、良い関係を保ち続けるといううまい流れを作ることができるだろう…と考えられるのだが…。

だがそれは、所詮当人が考えた時代の流れに乗ったつもりなだけであり、Xさんの見立てた時代の流れと、Yさんが見立てた時代の流れが、必ずしも同じ速度、同じ方向への流れであるとは限らない。いや、同じであることの方が稀有かもしれないだろう。二人のベクトルの方向がずれることになる。とするとこれは徐々に、場合によっては一気に、二人の相対位置が/関係性が離れていく可能性が出てくる。

 

 

 

自分と、他人と、時代と。

抗いようのない事実として、時は止められない。その中で、どのようにして自分のあるべき位置を確保するのか。組織的、時間的、あなたの位置、ポジション。どう流れていくか、ド流されていくか。その流れの中に良くも悪くも翻弄されながら、何かとの相対位置は徐々に変化するだろう。目ざとく変わらないところへと移り続けることも可能かもしれない。が、それは実はもっとも難しいことかもしれない。

ならば何らかの形で自らの意思で、違った関係性、位置、ポジションを自分を操作していかなければ、いい形の位置取りはできないだろう。だまって目の前に流れてくるものだけを見ていてるだけで、良いものがセットされるというのは、万に一つの偶然に過ぎない。