クセジュ

学校の授業でも、講演会でも、勉強会でも、会議でも、どんな場所でも時間に余裕があれば、たいてい質問を受け付けてくれる。日本人は、みんなの前で手を挙げて質問することに躊躇する傾向もあったりするけれど、それでも話者はたいてい「他に何か質問はありませんか?何でも構いませんよ」と聞いてくれる。

 

質問はした方がいい、というか、質問しなきゃいけない。しよう。よほどよく見知った分野なら質問内容がないこともまれにあるかもしれないけれど、そんな時は“他の人がきっと聞きたいだろう質問”で構わない。些細なことでいい、何か、何か聞こうよ。

 

反対に、もし質問できないなら、「どうして質問できないのか?」を考えてみてはどうだろう?

それはその内容が聞くまでもないものだったのか?よく知っている当たり前のことだったのか?学ぶべきものが何もなかったのか?知る必要のない内容だったのか?いや、本当にその内容をきちんと聞いていたのか?“何がわからないか”すらわからないくらいに難しいものだったのか?

 

よく知っている内容/当たり前のことなら/知る必要がないものなら、そもそもその場に参加する必要すらなかっただろう。出る必要がなかったんだ。

難しすぎてわからないなら、参加するレベルを間違えていたかもしれない。

じゃあ、本当に聞いていたんだろうか?聞けていたんだろうか?いきなり専門的な内容の話になるような学会のようなものならまだしも、たいていは優しいところから話は導入されていく。となれば、どこかの時点で、わからないことが発生した瞬間があるはずだ。そこは質問できるはず。それはきちんととらえられただろうか?きちんと聞けていただろうか?

もっと大胆にいうなら、質問できないということは、その場に来た意味はなんだろう?あまりに説明がうますぎて、すべてが頭の中に入ってきた。たまにそう感じることはあるのは事実だし、うまい話者はそう思わせる。でもそれすらよく吟味して聞いていれば、やっぱり“ん?”と思うところは出てくる。それはよく聞き、よく考えているからこそそう思う瞬間。頭を働かせているからこそそう思える瞬間。

 

 

質問するため/できるためには、その時の説明をしっかりと聞いていなければならない。トンチンカンな質問をしたくないならなおさら。質問をするためには、頭をフルに働かせていなければ質問できない。

よい質問ができるというのは、自分なりにギュンギュン頭を働かせていなければできないはず。最初は意識していないと考えられないかもしれないけれど、何度か集中するうちにそれは習慣にさえなる。

 

いい質問をしよう。誰のためでもない、自分のために。