形式言語

誕生日会というのは、子供のころは待ち遠しい日付の一つなんじゃないだろうか?どんな子供でも、必ず1年に一度、自分が主人公になれる日。特別な才能がなくたって、表彰されるようなことをしなくたって、みんなが自分を見てくれる。

小学校に入ってからも、低学年なら特に、まだ自分がヒーローになりたかったりする。と同時に、友達の誕生日会に呼ばれるということ自体が、お友達としての意識や、会そのものの楽しみを享受できるとき。ウキウキ、ドキドキ。

中学高校になると、さすがにみんながみんな「お誕生日会」を開催しないとは思うけれど、気の置けない友達どうしであつまって、他愛のない話に花が咲くこともあるだろう。

大学になると、「リア充」かそうでないかあたりでくっきりと分かれそうだ。充実している側の人は、彼氏彼女と一緒に二人でお祝いをしたり、もう少しラフには、友達仲間やサークル、同好会をベースに食事会など。

そうでない側の人は、特別に誕生日だからといって特に何もせず。あぁそうか。なら、いつもよりワンランク高いランチでも選んでみるかとか、買おうかどうか迷っていたBD/DVDをポチって見たといった個人消費がちょっと増えたり。

 

ところがここにもやっぱりネットの力が働き出す。SNSというシステムが充実しだしたり、活発になり始めたあたりで、ちょっと状況が変わったのかもしれない。システム上の友達関係を結んでいる人から一言、「おめでとー」などとメッセージが入る。メッセージを送る方も、端末をちょっと叩くだけ、今ならスマホでちょっと送るだけ。いわばtwitterでつぶやくのと変わらない手間でメッセージを送れる。

言ってみれば「おめでとう」の価値が下がったのかもしれない。非常に安上がりにコメントが出せる、このシステムの真骨頂だろう。

 

 

けれど、「それまで面と向かってそういう機会が減っていた/なくなっていた」人にとっては、ちょっとむずがゆい感じがなくはないものの、決して嫌なものではない。なにかくすぐったいのだけれど。

 

実質的には形式的になりがちで、ありがたみがなくなったり、重みがなくなったとしても、それでもコミュニケーションしたい動物。それが人。誰かとかかわることで、楽しさやうれしさ、喜びを生み出すことができる。もしかすると、今の社会はもう少し“物理的に”おせっかいになってもいいのかもしれない。