手ほどきの前に

・これは包丁です。野菜を切るにはこのように使います。肉はこんな風に切ります。

・これは金づちです。くぎを打つにはこういう風に使います。

・これはケータイ電話です。電話をかけるにはこのボタンを押して、電話番号を打ちます。

 

道具を使う場合、見れば使い方がすぐわかる道具もあれば、なかなか操作方法がわかりにくい道具もある。使い方がわからない道具は、誰かわかる人に教えてもらう必要がある。

 

だが、“はいっ、目の前に道具があります”というところで、誰もがその道具の使い方を知りたいか?と言えば、決してそうではない。たいていは、

 なにこれ?ふーん、そうなんだ。…で、何に使うの?ふーん。

てなあたりで終わる人が多分大半。さらにそこで食いついて、

 で、どうやってこれ使うの?教えて教えて!

と食いついてくる人は、何にでも興味がわく人か、何か使い道が想像できている人。その道具の向こうに、道具を使ったものが生み出す世界が見えている人だろう。

 

逆に言うなら、道具の向こう側を誰にもわかるように興味を持たせて、“…で、それを作るにはこの道具を使うんです。使い方は…”とうまく誘導できれば、誰もが知りたくなる、学びたくなるんじゃないかな。

 

 

小中学校で習うような教科や知識のほとんどは、大人になったときに使う基本の道具だ。算数は、それこそ間位置にのお金の計算に、国語は人との情報伝達やコミュニケーション、心の機微を知る方法、理科の基礎がわかっていれば、実は料理の手間が省けたり、社会がわかっていれば、社会の仕組みで損をしないといったようなものもある。

 

でも小学生、中学生の多くは、“教科そのものが目的”になっていると感じている人が少なくない。それを知ること、その教科を学ぶこと自体に面白さや興味を見出さなければ、モチベーションも下がりがちになるが、そいつはかなり難題だ。

けれどもしも、その教科の向こう側に面白さがわかったり、見えたりしたら。そこで習うことを道具として使った“先にある世界”を感じられた瞬間、もう学びの難しさ、面倒くささは一気に吹っ飛ぶことがある。学生時代、英語が苦手で苦手で…といっていた人が、あの映画をもとの英語のままで理解したいとか、ミュージカルを見たいとか、恋人が欧米人なんだとなった瞬間に、英語がどんどんと身に付くようになるなんて話は、まさにその典型だろう。

別に学校の科目に限らない。明確な目的さえ持つことができれば、その目的を遂行するための道具の使い方など、だれに強制されることなく身に着けようとするもの。だって面白いと思った目的を実践したいんだもの。

 

だから、「道具の向こう側」の目的に興味を抱かせた上で、初めてその道具の使い方を学ぶ気になれるはず。いや、“道具の使い方を学ぶこと”なんて意識させること自体がもしかすると敗北であり、正しい目的をきちんと理解する、共有することこそが、目的へ向かうための道具を使いこなそうとする時のステップ。“道具を使うことが目的”だというのは、それは特殊なことなんだから。

 

よく仕事で言いませんか、手段を目的化させちゃいけないって。

子供向けの学習こそ、それを意識して行えれば、もっと子供たちは興味を持って学ぶだろうし、学びの速度だって変わるんじゃないかな、と思うんです。