最適なコンバーター

人が行動すれば、なんらかの結果が生まれる。それが「仕事」としての行動であれば「ビジネス成果」であり、「勉強」としての行動であれば「テストの点数」などとして表出する。

何かを作ろうと食材を「調理」すれば「料理」となり、「スポーツ」として運動すれば「ゲームの勝敗」となる。

 

だが人は、その「仕事」や「勉強」「調理」「スポーツ」等々において、その一つ一つの行動を別個の知識として蓄えているわけではない。

「仕事」なら、書類を作ったり、約束を取り付けたり、対価を支払って労働や製品を手に入れたり…。そうした“どんな仕事においても行うであろう仕事の基本”を持っている。社会人の基本みたいな言われ方をすることもあるかもしれない。それこそ約束の時間に遅れないにはじまり、挨拶、確認、報告等々、ビジネスの基本はどこにでも応用が利く。

 

「調理」もそうだろう。人参であろうがジャガイモであろうが、皮をむいて切る、という基本がある。皮をむくもの、皮ごと食べるものというグルーピングはあったりもするが、基本、剥いて、口に入る大きさに切る。肉や魚も同じこと。食べるのに不都合なところは除去して、口に入る大きさにし、必要なものは火を通して、不要なものは生で、味を付けて並べる。それが料理。

 

「勉強」にはいくつか種類があるが、すべてのパターンを覚えきらなければならないことと、テンプレート/公式を覚えて、それに当てはめることでさまざまに利用できるものとがある。国語や英語でいえば文法。これほどさまざまなルールを圧縮して記憶できる手法はない。あとはそれに、ここにおぼえなければならない事象や事物の名称をあてはめさえすれば、コミュニケーションの基本は始まる。算数は言うまでもない。理科は物理的理屈を理解したうえで、公式を使う場合と、事象別の事情を暗記する場合があったり。

(こう考えると、国語算数理科社会英語…といった教科という学び方の、なんと分化/効率化されていることか。)

 

そうして勉強にしても、ビジネスの基礎にしても、個別個別で覚えるのではなく、あぁ、こういう時にはあれに似た対処の仕方でいいのか、とわかり始めればしめたもの。それは、以前の行動/経験を抽象化し、次への具体化の方法を理解した瞬間。自分の中に「抽象化された知識」として蓄積されたものに当てはめられることが認識され、それをあてはめたうえで、目の前の具体的事象に適応し対処する。

いうなれば、人は、いかに多くの知識/パターンとして、抽象化された知識やテンプレートを用意し、時にそれを引っ張り出して目の前の事に当たることができるのか、が、できるできないの一つの分かれ目。知識やテンプレートが多いか少ないかという知識と、知識は持っているかもしれないけれど、それにいかに具体事象をあてはめられるかどうかが、差異になっていないだろうか。

 

昨今、地頭がいい、なんて言い方をすることがあるけれど、それは、今まであてはめたことがないテンプレートに具体事象をあてはめることができること、だったりするのかもしれないなぁ。

 

…と空想。

 

抽象化能力を馬鹿にする人も、具体化したものを馬鹿にする人も、どっちもダメだろ。