メル友

「メル友」こんな言葉を聞いて「ピンとくる」人は、もうかなり古い人だろう。実はその数年前には「ベル友」なんて言葉もあった。

 

1990年代初頭、まだケータイ電話はかなり高価で、一般人の間では、ポケットベルという代物が使われていた。ポケットベルについては、Wikipediaあたりで調べてもらえるといいと思うけれど、それを持っている人に向けて「初期は数字列」を、「終盤には文字列」を受け取れることができた機械だ。あくまで受信専用。でもそれを二人がお互いに持っていれば、公衆電話(これもずいぶん減った)を通じて、双方にメッセージを送りあうことができる。で、ポケット“ベル”だから「ベル友」。見知らぬ誰かではない、知っている者同士でつながっていたあの頃。

 

それも1990年代後半に入り、ケータイが普及し、電子メールが徐々に使えるようになってきたころから、メールを送りあう友達、「メル友」が生まれ始めた。これはもうケータイなのだから双方向。パソコン文化もしっかり浸透しだしたというのも影響しているだろう。それでも、全く知らない人とつながりあうなんてのはまだ珍しい方だった。

 

その後、日本でも匿名掲示板サイトが出始めた。知らない人同士が匿名でつながりあう可能性も広がり始めた。その一方でmixiというSNSができた。友達の友達が見えるしくみだった。

知っている友達/知らない友達、本名を使って/匿名で、ネットの世界は混沌とし始めた。仕事に忙しい大人たちは、そんなことにかまけている時間はないとばかりに、時にケータイで、時にわざわざパソコンを開けてまでそんなことにうつつを抜かしている若者たちのその行動の、何が楽しいのかわからなかった。

 

でも今、そんな大人たちが、facebookにはまって友達を増やし、LINEでチャットし、Twitterでつぶやく。いや、確かにその多くは、そうした昔やっていた世代が成人してきたことによって「持ち上げられてきた世代」が多くを占めているのかもしれない。結局10年前に使っていなかった人は、今もfacebookなんか使っていないかもしれない。

 

今どき「メル友」とか「ベル友」なんて言わないのと同じように、今から10年後はfacebookTwitter、つぶやきなんて、時代遅れになっている可能性は高い。

でも、それでも変わらないものはあるだろう。

“人とのつながり”だ。

 

 

メル友でもベル友でも、mixiTwitterでもfacebookでも、そしてきっと10年後においても、誰かとつながっていること、誰かとつながっていたいということは変わりない。たとえそれが匿名掲示板における発言であったとしても、実名ブログであったとしても、そこに書き込むということは、誰かの反応を期待しているからに他ならない。誰かに見てもらいたい、誰かと何らかの形でつながっていたい。

 

仕組みの話をしてもしかたがない。道具なんてのは何でもいい。それこそネットに頼らず、町内会の集会であっても、自治会の集まりであっても、PTAの集まりであっても、ペットの犬の集まりであっても、そんなのは何でも構わない。

誰かとつながっていられること、誰かとコミュニケーションできること。それ自身が誰かを支え、あなたが支えてもらっている。面倒であるがゆえに価値があり、簡潔であるがゆえに価値がある。簡単に切れる関係性は当然リスクであるため、たくさん持っている必要がある。簡単には切れない関係性は切れるリスクは少ないものの、当然切れない裏返しとしての面倒もある。

 

手段をたくさん持っているということは、それを選択できる自由を持っているということ。“どうやって友達を作るか”が目的ではなく、“どんな友達を作りたいかが”あるはずじゃないのかな。そのためには、多くの手段を使って目的にたどり着ける、に越したことはない。毛嫌いする必要はない。手段は手段でしかない。道具は目的じゃない。

 

ただ、新しい道具は、少しだけ便利になっていることが少なくない。