見繕われたもの

以前の私の職場はいわゆる家電業界だったのだけれど、次の新製品を出すために、こういう言葉を何度も聞いた。

 

「エンジニアのみなさーん、次の新しいフィーチャーを考えてください。」

 

もちろん、大前提として企画が新商品のコンセプトを固めたり、市場調査をしたりというのはあるものの、技術がなければ次の価値を生み続けられない。だからエンジニアにもハッパをかけられ、上記のような言葉が出てきているのだと思う。

 

ではそういう言葉を聞いたエンジニアはどう考えるか?

フィーチャー、仕様、機能、アイデア、なんでもよいのだが、自分の手持ちの技術で、しかも次の新製品への搭載に耐えられる技術で、提供できるものは何かないか?と考えるのが普通ではないだろうか。エンジニアだって人の子だ。自分が提案したなにかが搭載されればポイントを稼げるかもしれない、認められるかもしれない。なので何かしなくては、何か技術を提供しなくては…。

そうして有象無象のアイデアや技術があつまりはするのだけれど、当然すべてが使えるレベルのものじゃない。それは技術的に未熟なものもあり、これまでの商品の流れ的にタイミングや方向性が合わないものもあり。そうした物を事業部や企画部が取捨選択していく。

 

…と、こう書くと聞こえはいいが、実態はもっと厳しい。そうそう次々といいものが出てくるわけではない。実際は何とか形を付けてひねり出すのが精いっぱい、ということだって少なくない。

考えても見れば、そんな“次”に出すような新しいフィーチャーを絞り出そうとするということ自体どうなのだろう?「技術」とは、そんな単純な物だろうか?そんなに簡単に、ポンポンと吹き出るようにアイデアがわき出てくると思っているのだろうか?

 

たぶん指示した上長もわかっているのだ。そんなに技術が単純ではないことも、アイデアがわき出てこないことも知っている。アナログ時代ならそんなスピードでも商品が生み出せていたけれど、デジタル時代になって、どんどんと周りで熟成されていないアイデアが具現化され、時にそれが当たることで、焦っているのだ。

それでも何か乗せていかなければいけない。次に少しでも“何かを足すことで価値上乗せする”ということでしか存在価値を誇示できない(と思い込んでいる)。以前と同じものを生み続けていては、価値は下がるばかり。新しいものには新しい技術を付加して、沈み続ける価値観を、必死に吊り上げていく。

 

でもそうして枯渇しかけたアイデアで見繕われた製品は、どんどんと品質が落ちていく。いや、会社として保証する「製品品質」ではなく、「商品の価値としての質」が落ちていく。使われそうにない無駄機能が一つ足されて価格は以前と同じ。そんなことを繰り返し、使われない機能てんこ盛りの製品として徐々に太りだす。安売りメーカーは下の価格帯から攻めてくる。上の価格帯に逃げなきゃ、付加価値を乗せなきゃ…。

 

 

これまではそうした“モノづくり”は、メーカーにしか生み出せなかったりもしたけれど、そうした技術がどんどんと庶民に降りてくることで、大きな企業が利潤をむさぼるのが難しくなりつつある。マスプロダクションであればこその高付加価値低価格だった商品が、超少量であっても、そこそこの価格で作れるようになってきている。それはメーカーをささえるテクノロジーの潮流の根底の流れが変わりつつあるというところに起因している。だからこそ昔は、巨大メーカーがもてはやされたけれど、今や巨大であること自体が巨大なリスクと化そうとしている。

 

 

誰もが大きな“花火”を打ち上げたいと思っているだろう。でも、そのためには小さな花火がきちんと見繕えるようになっていないと、大きな花火など打ち上げられない。いや、俺は昔やったんだ…といったところで、すでに昔と今とではテクノロジー自体が変貌してしまっている。

 

で、あなたが見立てているそれは、いったいいつのテクノロジーだろう?