消耗品としての道具

ちょうど良いサイズのねじ回しがなくなっていて、ドライバーを購入する必要に迫られた。街へ出る。今どきならまずは100円ショップだろうか。

店に入るとお菓子やキッチン用品、文具、トイレタリーなどなど、さまざまな商品と共に、片隅に日曜大工に関する道具がまとめられている。

ドライバー、見つかる。

多種多様なサイズのドライバー、今どき、精密ドライバーまで100円ショップで手に入るのに驚きつつ帰宅。結果としてそれで、目的のネジを回すことはできた。

…が、どうも「違う」のだ。

 

 

一般的ではないのかもしれないけれど、やはり100円ショップで安売りされているそのドライバーは、“食いつき”が良くない。今回はそんな問題はなかったのだけれど、“食いつき”が悪いとネジ山をなめて潰してしまい、最悪、まわそうとしていたネジがまわらなくなって取れなくなってしまったりする場合が、容易に想像できる。

その点、高価なドライバー(たぶん1本800円、1000円とするだろうそれ)は、やはりそれなりにきちんとできていて、ネジ山への食いつきが良く、変な遊びもなくて、カッチリとネジに食いつき、確実に回してくれる。素人が一瞥しただけではわからないのかもしれないが、あきらかにその性能には差がある。

 

ドライバーなんて、そんなにすぐに壊れる道具ではない。とするなら、家にあれば、今後、何本もネジを回すことになる。とするなら、信頼と品質を兼ね備えた、少々高くても良い道具を選ぶのが、結果として安上がりになることが多いのではないかだろうか?そしてそういう道具は、何もこれだけに限らないだろう。

だが、「目の前のネジ数本さえなんとか回せれば」それでいいという目の前の課題をこなす事だけを考えるならば、とりあえずこなすだけの費用対効果として、安上がりの道具でその場をしのぐというのは、それはそれで一つの解決策ではある。

安さが正しいのか、良いものが正しいのか。

 

 

結局その感覚は、費用対効果。ではあるものの「効果を測定する対象期間」という観点の前提をどう考えるべきか?認識をどのように持つべきか?ということにたどり着く。

 

毎日使うものには少々高くてもいいものを、年に何度かしか使う機会がないものは、つどその場で対処する。こう考える人は少なくない。

 

そうして、毎日使う携帯電話にはお金をかける。と、メーカーはそこにさまざまな機能を足して足して盛り込んでくる。お金をかけてもらえるところには、お金をかけてもらえる機能を搭載して…。

年に何度かしか使われない道具はその場で対処する。かつての銀塩時代のカメラが、一眼からコンパクト、最後には1000円のレンズ付きフィルムにとってかわられたのと同じだろう。今のデジタル時代においても、旅行に行く時のカメラ、運動会のビデオは、そう何度も使う道具じゃない。そしてそれらは今、携帯に付帯され、収斂されつつあるものになっている。

 

こうして、日々使われる道具はなんでも携帯に、年に何度かしか使われないような道具は、一部のマニア向け高級機と、超安売り機種に二分されていく。

 

高級だけれど数が出ない方と、安売りだけど、どんどん使い捨てられるものと。

 

 

# そんな世界にしたかったんだっけ

# 道具の先にある未来は、どんな形にしたかったのだろう