人は“それ"を選びたいのだろうか

ウナギ屋など、もうここ何年も行っていないなぁと思いながら。

 

別にウナギ屋に限らないのだけれど、うな重のメニューに、松竹梅があったとき、みなさんはどれを選ぶだろう?日本人のメンタリティかもしれないけれど、“一番安いのは遠慮したい、だが一番高いのは高すぎる”として、「竹のうな重を1つ」と頼む場合が多いと言われている。

店側もそれを承知の上で、松竹梅の3種類を、わざわざメニューとして用意するとも聞く。

 パターンはどこでも変わらない。寿司屋の握り、上握り、特上であっても同じこと。

 

家電でも全く同じで、同じモデルにおいて、超何でも機能特盛機種、そこそこ機種、超お安い廉価版機種、がラインナップとして位置づけられ、「そこそこ機種」の生産量が一番多かったりする(メーカーとしての利幅が大きい)。

 

 

だがこれ、もしもウナギ屋においてメニューが「うな重」ひとつだけだったら、そもそも客は選択の余地がない。主導権が与えられていない感覚に陥る。でも、出せるものも別にさして変わらない。

寿司屋も同じ、家電でも全く同じだろう。

 

人は本当に“それ”が選びたいんだろうか?選択肢があるなしにかかわらず、本当にそれを求めているんだろうか?いや、そんな優柔不断さがあるからこそ、消費でもしてみようかと気分に流されてちょっと高いものを買ってみたり、今は使わないかもしれないけれどいつかは…とちょっと高いと思わされたものを選択したりするのではないだろうか。時にはその“いつか”は廻ってくるときもなくはないのだろうけれど、まずやってくることはなかったり。

 

そうして消費が促進されることを望んでいるんだろうか?いや、そんな消費行動がしたいんだろうか。

 

 

自分が欲するものが何かをわかっていれば、たとえ選択肢があろうとなかろうと、それを選べるようになる。それがなければ、清く諦めるか、妥協する。

自らの希望がわかっていないからこそ、その場で判断して選びたくなる。

 

“選べないとわからない”ということは、理想の何かが描けていないということ。たまたま、自分がぼんやりと思い描いていた理想の形に合致するもの/近いものを、誰かが偶然にも作り上げてくれていたならば、それを選ぶのだろうけれど、それを形にしたり、情報にしたりして伝えることが難しいのだろう。

けれど、もしもそれがイメージできているなら、それは、それについてとことん考え抜くことができているということ。それが形ある製品であっても、サービスであっても、社会システムであっても、何でも構わない。とことん考え抜かれたそれは、十分に目標たる価値を持つものになる。