一致させる覚悟

かくれんぼができない子供が増えているという記事を見た。そういうタイトルの本もあるらしい、が、中身は読んでいない。

どうやら一人になることが怖い、という話のようだ。自分がとっている行動が、もしも他人と違ったらどうだろう?一人だけ特異な行動、一人だけ特異な発言、という、いわゆる共通大多数から外れることを恐れる。ちょいと前の言葉で言うなら、空気を読んでいる、とでも言うのだろう。

 

これは大人のダブルバインドを子供なりに的確に肌でとらえ、判断した結果の行動ではないだろうか?

 

どこかの歌ではやったらしいけれど、ナンバーワンにはなれなくても、オンリーワンにはなりなさいね、と、ちょっと物わかりのいい大人は言う。その一方で、その大人や親がどういう行動をしているかは、子供たちの目から見てもわかるものだ。

子供を諭すとおりに、オンリーワンの行動が、自分の行動においてもできている大人は、言動一致しており、非常にクリアーにメッセージが伝わる。しかし、言葉ではオンリーワンだと言っておきながら、自分はと言えば、オンリーワンどころか、周囲を見て流れに乗るという生き方を示していては、それをお手本としてみているものからすると、言っていることとやっていることに不一致が生じる。どちらを信じるか?そりゃぁ…。

 

自分はそうはできなかったから、せめて子供にはそうあってほしいと願う親は少なくない。だがだからと言って、自分ができなかった理想を、子供に押し付けるというのは、それはそれで無責任でもある。発言するということと共に、背中で語らなければならない親。それは職場で「長」と名のつく人たちにおいても同じことだろう。言葉で語ることと、自分の行動に不一致が見られれば、その後ろをついていこうとする者は、いぶかしがるのは当然のこと。どっちが本音か、どっちを目指しているのかなんてのは、透けるように見えてくるもの。

 

ま、だからこそ、大人になりたくない、とか、管理職になりたくないなんて人が増えているというのもありそうなんだけれど。

流れに乗るのも、流れを作るのも、難しい時代。