ワーク、ライフ、バランス

仕事と生活のバランスを考えましょうといった趣旨から、ワークライフバランスという考え方がこれほど認識が広まったのは、ここ10年くらいのことだろうか?少なくとも20年前には、私は聞いたことがなかった言葉だ。

 

仕事と家庭を両立する、という意味でのワークライフバランス。仕事にばかり注力して、家のことは何一つしていなかったような人が多かったであろう団塊世代と比較して、今の仕事の中核に位置する世代は、仕事と家庭の両立を考えよう/考えたいとしているのだろう。

 

 

だが、仕事は日々進化している。少なくとも、民間企業で働いている多くの人たちは、それこそ右肩上がりの企業の成長を目指して働けと叱咤激励されているはずだ。去年と同じでいいよ、なんて目標を立てている企業は聞いたことがない。そのためには日々研鑽しなければならないし、仕事の能力も上げていかなければならない。20年、30年前の仕事に比べれば、便利なツールがそろったことによって、今の仕事は昔の何割増しかになっているとしても不思議ではない。

黙っていても、社会全体が右肩上がりだった時代ならまだしも、そうでない時代においては、相当な個人の努力、もしくは恵まれた業種でもない限り、右肩上がり状況に仕事への努力が反映することなどありえない。となれば、それを目指して、もっと効率よく、もっと儲かるように働け!とハッパをかけられるのが落ちだろう。努力を惜しむ必要はないけれど、こうして仕事にガッツリ注力し、なおかつ同時にライフバランスも、というのは虫が良すぎやしないだろうか?

 

家庭の仕事は昔からどれだけ変わっただろう?もちろん、洗濯機、食洗機、ロボット掃除機等々、かなり手間を省けるところは増えているというのは理解する。しかし、子供の世話に関しては、20年前30年前の子供に比べて、今の子供が“育てやすくなった”などという進化は聞いたことがない。子供は子供、トラブルはたくさん、ぐずることだってあるし、風邪もひく。ずっと以前から変わり映えしない。親がいくら効率化したところで、課題の主たる要因は常にゼロからスタートする。

 

昔に比べ利便性の上がった分は、ほぼすべて“ワーク”の側の効率化にとられ、“ライフ”の方は相変わらず忙しいままだったりしないだろうか?いや、そうではなく、核家族化が進んだり、頼れる親類との距離が離れることで、機器の効率化分が相殺されていると考えてもいい。とにかく、“ライフ”部分の本格改善が進まないうちに、“ワーク”部分ばかりが、バランスを唱えることで、実は個人においては“バランス”を欠いていたりしないんだろうか?

 

真の意味でワークとライフにおいて“バランス”を取りたいというのなら、本当は、なにかを削らなければならないのではないだろうか?天秤においては、一方が軽すぎたら反対側に“足せば”いい、と考えがちだが、そもそもその“天秤の竿”自体の耐荷重は、誰が保証しているんだろう?もうすでに天秤の両側の皿には、十分すぎるほどの重りが乗っている。それらをなにも削らずに、むしろ足すことでバランスをとるなんてこと、本当にできるんだろうか?

 

“人”は、20歳くらいで体の成長はピークに達し、その後は衰え始める。どうして“経済”だけは、ずっと成長し続けると思えるのだろう?それも有限の地球の上において。ほんとうに“バランス”を考えている経営者で、本当の意味での“ワークライフバランス”を考えている人は、企業の成長との整合性を、どこまで論理破綻なく説明できるんだろう?突き詰めた時の資本主義の矛盾と、どう折り合いをつけるんだろう?

努力の限界と、システムの限界を見極める目は、誰が持つべきなのだろう?