窓からの眺め

旅に出る。飛行機や鉄道、車に乗り、目的地へと向かう。日頃見ない景色、雰囲気にのみこまれ宿に着く。外国のホテル/国内の宿で部屋に通され、荷物を置いてほっと一息。

窓から外を眺めてみると、たとえば一面の海原に面していたり、もしくは山の絶景が見えたり。その街が見渡せる絶妙の景色もある。借景と呼ばれる哲学にも通じるような景色もある。それらいつもは見ない景色に、心洗われることもある。

 

しかし、宿から見えるどの景色にしてもどの風景にしても、それはそこに人を迎え、景色を含めてもてなそうとして「作り上げた」風景。たまたまそこから見えたのは、すばらしいオーシャンビューかもしれないけれど、その反対側にあたる裏通りには、喧噪うずまく街並みが控えているかもしれない。それが見えないのはただ、そちらに窓が設置されていないだけ。

いや旅行者としては、見たくないものを見なくてよい。たった数日間の滞在を、いかに心地よく過ごしていくかだけを考えれば、それは一つのもてなし方だし、それこそがサービス。

 

しかし立場が変わり、ずっとその環境で済み続ける/生き続けるとするならば、美しい景色だけではなく、見たくない景色、本質的にはかかわりたくはないけれど、かかわらざるを得ない雑事も存在する。「表(おもて)」だけでは生きていけない、「裏(うら)」も含んだうえでの生活。旅行者として見えている眺めが、その街の人が見ている眺めと等しいわけではない。

 

 

ネットの世界を通して見ているのは、所詮、「窓からの眺め」に過ぎない。誰かの書いた記事や、誰かが用意した感想。それらがそこにあるのは、必ず誰かの目を通し、感想を通し、意識をもってか持たずかにかかわらず、意図してつくられた情報に他ならない。

カメラを使った生中継でさえ、そのカメラの画角を決めるためには何らかの意思が働く。映したくないものは映っていない可能性はある。そして、あえて映さないようにしたものというものに気づく/意識することは、なかなか難しい。

 

真実を知ろうとするなら、できる限りフィルターを排除して、そのモノに直接アクセスする必要がある。直接そこへ行く。そうできないなら、せめてそこにいた人に直接会い、その人の口から語られるモノに触れるしかない。文章化されたものではない、口から語られるものは、言葉のみならず、表情や間(ま)、語感や感情を含めたもの。素晴らしい情報量の違いを感じることはいくらでもある。それでも一次情報よりは格段に落ちるのだけれど。

 

確かにネットを通じて、以前なら得られなかったような情報に触れられる機会は、格段に増えている。でも、だからこそ「それでわかったつもり」になってしまう事こそが、恐れるべきことではないだろうか。

以前よりは少しは良くなった。それでもまだフィルターがかかっているという認識を持ち続けられるか。出向いて、現場を見て、感じて。それで初めてわかること。いや結果として、もしかしたら出向く前に想像していた「予想通り」の事を再確認するだけに終わるかもしれない。が、それをも確認したこととそうでないことには大きな差がある。本当に知ることの価値。それでも現場に出向くことの意義。