正解とは“都合の良い"解

もう今の時代、「機動戦士ガンダム」と言っても、知らない人の方が珍しいことになっているほどメジャーになってしまった世の中。何年かに一度ガンダムシリーズをアニメ化することで、ステークホルダーも企画を温めているし、もちろんプラモデルも売れ続けている。ガンダムシリーズを極めることで、稼動型プラモデルは恐ろしいほどに進化したなんていうのも一つの現象で。

 

1979年の初代「機動戦士ガンダム」は、連邦軍とジオン軍が戦うロボットアニメ、毎回出てくる敵ロボットを、連邦軍のガンダムが、必殺技で切り抜ける…、と思っている人はどのくらいいらっしゃるだろう。これだけ有名になっているので少ないかもしれない。

初代ガンダムが放映された当時のアニメのスタイルのパターンは、「正義の味方」対「悪のヒーロー」が主体。正義は苦難に打ち勝ちながら、世界(日本)の平和を守り抜く、というのがひとつの型だった。

 

そんな中、富野喜幸というアニメ監督が出てくる。今の富野由悠季氏。彼はガンダム以前から監督してきたいくつかのアニメ作品の中で、当時のそれまでのアニメとは違ったストーリーの展開、ドラマツルギーを試みる。

・実は遠い昔に世界を壊していたのは主人公たる自分たちだった、とか。

・必死で世界を守っているのに誰も味方になってくれない、とか。

今でこそ、複雑なストーリー展開のアニメーションも当たり前で、大人の鑑賞に十分耐えうる複雑展開もあたりまえのように存在するけれど、当時はまだアニメは子供のもの、と信じられていた時代。いつも悪者の敵、いつもただしい味方、という意味が変わってくるというのは不思議な“匂い”を醸し出す。

 

ガンダムもその流れの中で出てきた一つ。今までのアニメ番組だと思って一瞥していた人には、単なるロボットアニメにしか映らなかったかもしれない。けれど当時あのアニメに見入っていた少年少女は、そこに何か違うものを感じていた。あれは「連邦軍のめざす解」と「ジオン軍のめざす解」のぶつかり合いそのもので、どちらにも理由/正義が存在する。それを、他方の視点から見れば、悪に見えるだけであり、連邦が正しいともジオンが正しいとも教えてくれない。

 

 

それはいまさら言うまでもなく、現実に起きている戦争も、ビジネスの世界でも全く同じこと。自分たちは自分たちの理屈で仕事を、ビジネスを進めるけれど、他国/他社から見れば、それらは自分たちにとっての“都合の良い解”ではないことがほとんど。なのでいざこざが起きたり紛争、競争が起きる。

 

もしも、誰が見ても利を得られ、非の打ち所のない解が得られたとしたら、それこそが「正解」だろう。けれどそんなものはありえない。たまたまそんな正解が見つかる(と勘違いできた)ところでは協力するけれど、そうでないところでは競い合う。すべてで解の一致をみることができるなら、別れていること自体に意味がなくなる。一緒にならないのはなぜか?

ということは、世間で言われている「正解」は「正しい解」ではなく、「今の自分たちにとって都合の良い解」であるのに過ぎない。

 

これは会社単位に限らず、組織単位、ある事業部と隣の事業部でも起こりえるし、部長と部門長の間でも起こりえる。ビジネスが縮小しはじめている領域などではまさにこれで、拡大やパイが広がる解以外は「正解」にはなりえない。

 

…であるため「その解」で利を得るのは誰なのかがしっかり語られない“正解”こそが、もっとも疑うべき“正解”。それが「誰の」正解なのか、利を得るのは誰なのかを語れない/語らない解は、それは“あなたの正解”ではないかもしれない。