時間フィルター

古来の日本の単位は、体の大きさが基本になっていて、手のひらの大きさや、手の長さ、足の大きさを基準としたものが一つの単位として使われていた。

その後、世界的統一により、メートル法を取り入れることで世界的基準でモノや情報を流通させやすくなった。のは良いのだけれど、人の感覚や体感から導き出された単位というのは、案外と生活になじみ、使いやすいもの。

 

建築などがまさにそうであって、「その建築物がたてられた当時の人の大きさ」を基準に事物が作られている。「人」のそれぞれの部位を単位サイズとしているのだから、人が使いやすいものになるのは当然だろう。

その後、食べるものが豊かになったり、栄養が多くの国民にいきわたることで、「日本人」という基準単位そのもののサイズが変化した。体のサイズが大きくなったのだから、家の造りや単位が昔のままでは、相対的に小さく感じたり、中途半端に感じることも出てくる。

 

社会見学や旅行で、歴史ある旧家を訪ねた時に感じる小ささ/窮屈さというのは、それは“当時の人間の大きさ”基準の作成物。“今の人”から見ると小さく感じるのは、そもそも人の大きさが変わったのだという要因が大きいからだろう。

 

 

家に限らず、「人が使う道具」というものは、「人のサイズ」に起因するべきなのだと思っている。それを「このように使ってほしい」と思えば、「そのように使われる大きさ、重さ」を考慮せざるを得なくなる。反対に、「このような大きさ、重さで作る」とすれば、必然的に「そのサイズに合わせた使われ方」が現場において収斂される。そうした大きさや重さと使い方が感覚的につかめるデザイナーは、素晴らしい作品を生み出すけれど、それが感じられなければ、使われないもの/使いにくいものを生んでしまう。

 

使い方と物理的スケールは、相互に依存し合っている。色や形で区別をつけて、なんとかごまかそうとする時もあるけれど、それでもなお、「大きさ」というファクターは大きな影響を持ち続ける。

トランプやカードの大きさが、どうしてあの程度の大きさに収斂されているのか。どうしてあの程度の枚数におさめられているのか。手の大きさ、記憶領域の大きさ、色や形に対する認識力など、長い年月を経て落ち着いた形、数、色。

 

形や大きさ、重さには意味がある。人が使い続けた歴史、時間というフィルターは、侮らない方がいい。