正解の音

子供のころにはご多分に漏れず、シャーロックホームズをはじめとする子供向けの推理小説なんかを読んだりした。他にもいろいろな本を読んだ。漫画も読んだ。けっこうたくさん。

そうした小説や漫画が、ドラマになったり、アニメになったりもした。見たい!自分が読んでいたあの小説が、あのマンガが、テレビ画面の中で動き出す!こんなワクワクすることはない。

 

放送を見る、と、愕然とすることが。

 

 えー、主人公こんな声してないし…

 うそぉ、ヒロインはそんなルックスじゃないし…

 

テレビを見てそれを好きになり、テレビをきっかけにして漫画なり小説なりを読んでいたなら話は別だ。だが、小説や漫画を先に読み、それが漫画やドラマになったのを見た時、声やルックスに愕然とすることがある。

 

でも、それでいいんだと思う。いや“そういう経験をきちんとつんでいないといけないんじゃないかな”と思う。

 

 

 

小説の中では特に子供向け小説では、多少の挿絵はあるにせよ、すべての場面は画として描かれていない。当然声は聞こえない。そうした場面を想像/創造し、声を頭の中で響かせるのは、読み手自身だ。高い声低い声、どんな声でもいいけれど、出てくる人それぞれに、違う声が割り当てられる、というか、違う声を創造している。きっとこういうことをする人はこんな声だろう、この人はこんな声であってほしい。

子供だと、社会の事がまだまだ未経験で、海外の状況などわからないことがたくさんあるはずなのに、数点の挿絵と文章から、その情景をも思い描く。さらに音まで聞こえてくる。

声がわからないから読み進められない…なんてことは聞いたことがない。読めば自然に、頭の中に音が聞こえ、画が描かれる。努力する必要など何もない。

 

今ならさしずめ、Googleで検索したり、Youtubeで動画を探してみれば、それに該当するような風景や音は聞くことはできるかもしれない。が、100歩譲ってそれを見たっていい。その上で、本を読んで、場面を、声を創造する時間を持つ意味がある。

 

漫画でもそうだ。漫画は本よりもより具体的にイメージが描かれている。だから補うべきは音になる。だが、アニメを先に見たものにとっては、アニメの声や音が、漫画の声や音になる。できれば、自分で最初に「声」を創造する瞬間を味わってもらいたい。

 

もしかすると今の子供たち、いや、子供に限らず親たちにおいてさえ、「正解」を求めすぎているのかもしれない。あのアニメならこの声、この役ならこの人が正解…と思いすぎているんじゃないだろうか。正解なんてないのに。

 

もちろん、とてもフィットする声、素晴らしい声優の仕事による素晴らしい演技というものも実際にはある。それはそれで味わうべき価値だろう。素晴らしい仕事だと思う。

しかし、それさえも乗り越えて、文学でも、漫画でも、自分の中で想像/創造する映像、想像/創造する音の世界を構築する時間というのは、とても貴重で、かつ、すばらしいトレーニングになっていないだろうか?そのためにも本を読むということがとても大切だということは想像に難くない。

慣れていないと文字を読むのはつらいかもしれない。子供のころは両親に絵本を読んでもらった方もいるだろう。そう、語りで本を聞き、場面を創造するところから始めても構わないと思う。

私はテレビドラマより、どちらかと言えばラジオドラマが好きだ。だが最近あまりラジオドラマを聞く機会が減っている。昔より番組が減ったというのもあるのかもしれない。が、まだ探せばあるのは確かだ。

 

イマジネーションの世界、創造することの楽しみ、喜び。それは「映像付き」にはない、すばらしい世界が広がっている。