ソースは?

友人と話している時でも、会社での昼休みの会話でも、場面はいつでもいい。

ある新しい情報、知らなかった情報が話題となった時にどのように反応するか?

 

それが、興味のない分野であれば、「へぇーそうなんだ」くらいだろうか。そもそも興味がないのだから、その真偽/信憑性にすら言及する必要もない。その時間を埋めるための、他愛のないやりとりのひとつ。

 

もしそれが、多少なりとも興味のある分野であれば、少し事態は変わるかもしれない。

自分がそれ以前に仕入れていた情報と合致した場合、「そうそう、そうらしいよね」とか、「あぁ聞いたことある」。もっと言えば、自分が事前に聞いていて、なおかつ自分の中で納得できている事である場合だろう。

 

だが、もしもそれが自分が納得していない反対意見ならどうか?「それほんと?そういう話も聞くけど…」「どこで聞いたのそれ?」と、そもそも審議をも疑う。「情報ソースは?」ということになるのではないだろうか。

逆、つまり自分に波長が合った意見が出た場合にソースを疑うことはあるだろうか?まずないんじゃないだろうか。

 

 

情報ソースの真偽等が知りたいときは、それは、自分の意思や信じたい方向とは違う方向を向いている場合。誰がどんなところでそんな意見を述べていたのか?情報収集が足りなかった?世間と自分の方向性が違う?こうしたことを確認したくなるんじゃないだろうか?

この対偶事象を考えれば、情報ソースについて知りたいと思わないならば、それは自分の目指している方向に沿った意見でもあるということだ(たまに、反対意見を熟知している、ということもあるかもしれないが)。

 

だがもしも確実性を増したいなら、自分の目指している方向に沿った内容こそ、情報ソースを確実にした方が良いという場面はないだろうか?

「あぁ、私もそう思うんだけど、それはどこに書いてあった話?」

 

今どきは、いわゆるマスメディアよりも先に、TwitterSNS、LINEなどのパーソナルなつながりから流れてくる情報も増えている。であるからこそ情報の信憑性は千差万別。情報スピードが上がることにより、犠牲にされている何かをどうやって補うか?過去のメディアと同じように信頼することが危険だ。信頼できる情報もあれば、口コミで飛び交う三次情報四次情報なんてのも普通にあり得る。ふと気を許すとそうした情報に飲み込まれそうになる。数が多い方が正しい、とは限らない。すべての事象の一次情報に出会えるはずのない私たちは、情報ソースの確実性をいかに担保できるか、担保する癖をつけるか、しかないのではないだろうか?

 

口に出さなくてもいい。「ソースはどこなんだろう?」ふと頭の中でとらえなおす癖がつけば、少し物事に対しての対峙の仕方が変わるかもしれない。