ルールをルールで

人間生きていくに当たり、大きいところから小さいところまで、何かしらのルールがある。明文化されているものもあれば、わざわざ明文化されてはいないものの、当然のごとく従うべきものもある。

 

どうしてそんなルールがあるのかというと、それがあることにより、無駄に争う必要がなくなったり、無駄なエネルギーを使う必要がなくなったりするということに起因する。そのルールがあるおかげで、多くの場面において、物事がスムーズに動きだす。

 

 

だが、世の中も複雑になってくることによって、ある事象に対処すべく作られたルールは、別の事象においては、ものごとをスムーズに動かすどころか、滞らせてしまうという要因をはらむこともある。いわゆる利害対立と言ってもいい。

 

そうなると既存の「ルール」の存在意義が変化し始める。それがあることによりスムーズに物事が進んでいたはずなのに、それがあることにより物事がギクシャクしだす。だがルールは依然として存在する。それがあることにより、今まで通りの利便性を享受できる者にとっては、「ルールは守るべき価値があるモノ」であり続けるけれど、そうでない者にとっては、「ルールの存在価値は地に落ちる」。

だが、ルールはルールだ。守るべきモノという位置づけはそうそう簡単には変わらない。一方から見れば、ルール“で”既得権を守り続けているに他ならない。他方、守るべき価値がないモノを守っているルールは、ルールで社会を守っているのではなく、ルール“を”社会で守っていることにさえ見える。

 

こうした利害対立は、どこにでも起こる。それをどうやって突破するか?交渉で突破するのが政治だろう。技術で突破するのがエンジニアリングかもしれない。論理で突破するのは哲学か。他には?力で突破すると喧嘩や戦争にも。

 

世界のすべての人にとって、誰も逆らう必要がないルールがあるとするなら、そのルールを突破したり、覆したりする必要もない。けれど、もしも誰かがそれによって不利益を被っているなら、不便を感じているなら、それはルールを守ろうとしている誰かがいる。それが多いか少ないかは関係ない。その理由を解き明かし、それを解決する手法を考え、行使する。

 

結局、世の中が複雑になりすぎたことにより、ルールで不満が“すっきり”と解消できることはなくなる。誰もが納得できると言うよりも、誰もが不満を最小限にするので精一杯。そして、偏在する不満をできるだけ薄く均等に広める、不満を薄める道具として。

 

道具に罪はない。道具を使う者の使い方に従うのみ。