知る

子供だった頃、もの心がつき、言葉が操れるようになった頃。身の回りの物すべてが興味の対象であり、不思議の対象。これは何か?何をするものなのか?知りたい。知った上で触ってみる。どうやって扱うのか触りまくってみる。何かの反応があれば、どうすればその反応を任意に起こすことができるのか、何度も試してみる。

 

小学校に入り、中学になり、高校になり…。いくつかの科目と、その“教科書”という教本を渡され、それらについて学ぶ、覚える。知りたいことも、特に知りたいと思っていなかったことも、将来“知っていなければならない常識”として、覚え、基本パターンを駆使して解く。

 

大学に入ると、いきなり教育の方法が変わる。が、そんなことは特に誰に教えられることもなく、いきなりのギャップにあたふたしながら対応していかなければならない。

基本パターンなどない。であるがゆえに、本来は考えなければならない、考え続けなければならない。けれどそれはこれまであまり習わなかった行為。

そのうちに、手を抜くことを覚え、遊ぶことを覚え、就職のための準備が始まる。

 

社会に出れば、日々仕事をこなしていく。

今までにはこの世になかった全く新しい事を生み出す職業…なんてのはまずなく、その職場やその事業が、今までやっていた延長線上の仕事を、今までのルーチンを覚えることから仕事が始まる。そこでの仕事のやり方を知り、覚え、それを実行していく。

 

そうしているうちに、日々の仕事で疲れもたまり、新しい事を覚える事にも時間を割くのが大変になる。知りたいこと…?そんなのインターネットで検索すればいい。そんな日々が始まる。

 

 

 

でも、「知ること」は始まりにすぎない。

知りたかったことを知ること、がゴール、終わり…では、物事は始まらない。

ごくまれに、「いままで誰も知りえなかったことを深く解明し、知ること」自体に、大きな価値のあることもあるが、それはごくごくまれなこと。それに、そういうことは、ネットで検索したところで、今すぐに答えが見つかるものではない、というところに価値がある。

 

ネットを使って知りえたこと。ここが物事が始まるスタート。ネット以前の時代なら、そうした情報を集める、ということ自体がスタートだったけれど、そのスタートラインがネットの普及によって、少し手前に来ているだけに過ぎない。

 

「知ること」で切られたスタートの後をどう走り出すのか、どこに向けて走り出すのか、いつまで走り続けるのか。ゴールさえも自分で決められるスタート。

もしかしたら、誰かが走っているのと合流してしまうかもしれない。誰かが走っている後を追いかけているだけかもしれない。でも、走り出さなければなにごとも起きない。いや、意識して走り出せば、何かが起きる/起こせる。