デザイナーとの会話から

以前の仕事でデザイナーと議論を交わすことがあった。機器の、ある操作系の仕様をどのようにするべきか?という内容だった。

 

「A案は××とした状況ではわかりにくいものになる。その点B案は、そうしたわかりにくさは起こりにくい。B案で行こう」

「いや、B案は分かりにくさが減る反面、操作手順が増えて面倒になる。A案の分かりにくさはすぐになれるレベルだ。A案B案切り替えられるようにしてはどうだろう」

「どちらかに決められないという時点で、それはメーカーとしての敗北、放棄と言ってもいいんじゃないだろうか?」

 

別に最近に限らず、操作系をどのようにするかを決定するのは、なかなか悩ましい。ボタンやスイッチがハードウェア的に設計されていた頃は、ユーザーが一番使いやすいのはどんな形か、どんな固さか、どんな手触りか、どんな押し込み深さか…。それが昨今ではディスプレイにUIが表れたタッチパネル操作が多くなり、操作系の実現は、メカ屋からソフト屋へとシフト。どんな意味のどんなボタンがいつ出るのか、その形は、色は、その時に機能を持たないものはグレーアウトさせるべきか消すべきか…。などなど、一度設計した人ならたぶん分かる、でも設計など考えたことがなければ、たぶん普通の人には分からないことを、メーカーの中では延々と考えている。

 

 

うどんやそばで好みがあるように、麺が細すぎるとか太すぎるとか、出汁が濃いめだ薄めだ、出汁の量が多い少ない、器が持ちやすい持ちにくい、椅子が座りやすい安っぽい、店の室礼がすばらしいとか気にしないとか…。同じようなうどん、うどん屋のはずなのに、同じようなそば屋のはずなのに、ちょっとした違いで好みが分かれる。場合によっては店に通ったり/通わなくなったりもする。

別の食品、マクドナルドとバーガーキング、ロッテリア、モスバーガーフレッシュネスバーガーの違いでも構わない。要するに、何が大多数に受けるのか、受け入れられるのかを細かく調整したり、議論したりする。できるだけ多くに受け入れられるように。

 

多くの家電企業がUIが大切だ、肝心かなめだというけれど、UIには好みで判断される部分も多いと感じる。実現されている機能は、今どきの名の知れた会社の違い程度では、さほど差は出ない。どこのメーカーであっても大して違わない。いや、大して違わないからこそ、小さな違いが価値を生む。

 

“それ”を実現するための操作体系や手数、デザインの統一性などで好みが左右される。モノとしてのさわり心地で好き嫌いが分かれたりする。ちょっとした重さ、重さの偏りが左右することだってある。動作のちょっとした待ち時間、反応時間の違いが印象を変える。もっと言えば、そのデザイン背景にある“哲学”が、好みを左右することもある。

 

「使い慣れた人用のデザインなのか、初心者をターゲットにしたデザインか」というユーザーレベルで判断している場合と、「その両者を含めたうえでの統一性」という判断をしている場合とでは、出来上がるモノに微妙な差異が生じることもある。だがそれは、今回の商品の購入の動機につながるほどすぐわかるものではなく、使い始めてなじみ始めたころから、その違いを感じるものであるかもしれない。言ってみれば、今回の購入ではその違いは出ず、うまくいけば次の機種への買い替えの際において、はじめて判断材料になる程度の違い。だが、次の買い替え時にまでそんなことを覚えていてもらえるか?という不安もある。今どき、他の要因でそのユーザーが、他のメーカーの商品にロックされてしまうことも当然ありうる。

また、今すぐ儲けにつながらなければ、会社が評価されていないということにもなる。何事もショートタームで判断する傾向が強まれば強まるほど、すぐにできる変化、すぐにわかる機能的価値ばかりに傾倒する。

 

見た目で判断すれば、そのモノが使いやすいのか、使いにくいのかといった、まさに見た目、外見のみでの比較にしかならない。でも、ちょっと引いてみることができれば、その使いやすさにおいて、会社の哲学があるのか、ないのかが見えてくることもある。そのメーカーが出している他の機器においてもそれが一貫していれば、それこそ使い勝手に大きな違いが出る。

そして多くの人は、認識している/いないにかかわらず、結果的に「その哲学」に魅かれていたりするところが少なくないように思える。その哲学を維持できていれば。