明日があるから

だから今日は無茶をしない、無茶ができない。

だって、明日も学校があるし。明日も会社があるし。明日も生活があるし。

金曜日に飲み会を設定するのは、羽目を外して少々飲みすぎて遅くなっても、明日は仕事がないから。明日を心配することなしに、食事に、お酒に、話に華が咲く。安心してそれに没頭できる。

 

もしも明日がないとわかっているなら、何のことはない、今日中にやりたいことをやっておかなければ。無茶だろうと犯罪だろうと、やり残したことがないように。道徳的リミッターとか、明日の心配とか、そもそも心配する必要すらないわけだし。この瞬間で終わるのだから。

 

明日がないとかあるとか、そんな心配をする以前であるならば、それは往々にして就学前の児童と同じ思考回路だと思うのだけれど。やりたいことを思いっきりやる。やりたいことを思う存分やる。体が疲れるまで/飽きるまで、やり続けられるという楽しみ。

これが学校に入ったら、「明日も学校があるでしょ」という言葉に徐々に洗脳され、明日も遅刻しないように早く起きなくちゃとか、明日は遠足だから早く寝なくちゃといった心配が生まれる。

 

そう、大なり小なり“心配”なんだよ、みんな。

 

あれはうまくいくだろうか?試験に合格するだろうか?プロジェクトに問題はないだろうか?見落としはないだろうか?忘れ物はないだろうか?本当の本当にうまくいくのだろうか?

 

 

心配しすぎても仕方がない。でも、全く心配しなさすぎるのも大人げない。

少し心配もして、気にかけて。

でも気にかけすぎないで、目の前のことにも集中して。

 

大人になるってことは、こうしたバランス感覚を身につける事なのかもしれない。

外から突っつかれたとしても、倒れないやじろべえのように。傾きすぎても落ちないように。

明日のために、明日の“楽しい事”のために。