ゼロの実現/知ろうとしない罪

霧箱という箱がある。目の前を飛んでいる荷電粒子を、見えるようにする工夫が施された箱だ。高校の物理実験?中学でも出てくるかなぁ?白いすじがスッとできたところが、その粒子が飛んだ証。似たような仕組みの泡箱というのもあるそうだ。

別に原発の事故がなかった世界においても、霧箱の観測実験を試みれば、いくつかの白いすじを見ることができる。この世には自然界からの放射線が飛んでいる。それが多いか少ないかだけの違いでしかない。この世にいる限り放射線量は0にはならない。

 

 

菌は目に見えない。だが病気を恐れるあまり、異常に除菌にこだわったり、モノをきれいにしなければと神経質に拭きまくったりする人がいる。だがそんな人であったとしても、菌は間違いなく保持している、常在菌を持っている。事実上人の体において共生している関係にあり、健康であれば特に問題を起こさない菌。だが、体が弱ったり、ストレスがたまって免疫力が低下したりすると感染することもある。かといってなくなりはしないし、事実上、その菌がない世界を作ることもできない。共生するしかない。

 

 

何が何でも悪いこと/良くないことはゼロでなければいけないという主張の人がいる。リスクを完全になくせという人もいる。少しでも危険性が残っていてはいけない。

だがそんな状態を作ることは可能だろうか?そもそも、現実的にそれをなくすことは可能だろうか?

 

可能なものもある。可能でないものもある。共生せざるを得ないものと、完全に駆逐できるものとを知らずに、すべてを駆逐しようとするのは、結果として効率が悪すぎる。

 

それが可能かどうかを知らなければ、なくせるかどうかという議論にならなかったりする。感情的に反応しがちになるという状況もわからなくもない。ただ、だからと言って、ずっと盲目的に何も知らずにそれを唱え続けることはどうだろう?

知らなければ正しい落としどころなどわからない。知らなければ交渉の突きどころもわからない。危険も病もリスクも…、知った上でどうするのか、それでもだめなのか、それなら妥協できるのか、できないのか。それがごっちゃになっているうちは、落としどころは見つからない。

かぎりなく0に近づけてほしいという思いもわかるが、だが0にならないものは、ではどこまで行ったところで妥協するか?という話にせざるを得ないのは当然の事。