という選択

「今この瞬間、AかBか、必ずどちらかを選ばなければならないという場面。どちらも選ばない、両方を選ぶというのはなしだ。だがどちらに関しても情報は完全ではなく、不確かな部分が残る。さぁどうする?」

 

こんな場面は毎日あると言っていい。完全な情報を持っている状態で選択できるというシチュエーションなど、まず来ない。自分が専門家であろうがなかろうが、否応なしに選択を迫られる。少々質問したところで、決定的な要因となるような情報が付与されることはまずない。

 

で、どうするか?

 

「で、みんなはどうしてる?どっちの方が多いの?」

 

 

 

最善の選択をしたい。でもそのためにはいろいろと学ばなければならないし、当然のごとく理解しなければならない。そしてその上で、どのくらいのリスクを背負えるのかを判断し、その結果として何かを「選択」する。

 

でも多くの人はそんなことができない。できる時間があったとしても、そんなのめんどくさい、わからない、そんなことは私にはできないとする事もある。しかし決断が迫られる。その結果どうするのか?

「ねぇねぇ、あなたどうした?」

「わからない、あなたはどうする?」

なんとなく周りに聞いたり、世間の判断に頼ろうとする。大勢が動く方へなびけば、万一間違ったとしても、“自分だけが間違う”ということはない。“自分の責任”ではない…ように思える。

“自分では選択しない”という選択。

それは半分以上、選択を放棄している。自分で選択しているのではない。実質的に責任を転嫁している場合が、多分ほとんどだろう。

戦略として、大勢が進む方へとなびくやり方は確かにある。…が、時としてそれは、リスク回避になっておらず、なおかつリターンは少ないという解である場合が少なくない。そもそも、リスク判断をしていないことの方が多分多いだろう。

 

リターンを期待する場合にはリスクを取らなければならない。

リスクを取りたくない場合にはリターンも我慢しなければならない。

良く学ぶということ、よく知る/よく考えるということは、リスクに対するリターンの割合を増加させるための仕組み。自分で考えればこそ、その意味も理解できる。そして、リスクが顕在化したときの事すら、考えに入れることができる。

 

単純なリターンを期待するだけではなく、リスク顕在化の際のリカバリーを含めたリターンを考えられれば、恐れる必要はぐっと減るんだ。